平安時代の美人像は、しもぶくれで細目のいわゆるおたふく顔でした。
その美人像は明治時期まで続いたようですが、現代の日本の美人基準とは
ずいぶん違います。
一般的に言われているのは、食料の供給率が低い時代はふっくらしていることが社会的にも出産適性からも望ましいとされて、そういった美人基準になるということです。
背景や、前提が変われば評価は真逆にもなります。
そのとき評価が徐々に変わるものもあれば、突然変わるものもあります。
ある時を境に評価がガラッと変わる…は結構起こっている
69年前の8月15日を境にそれまで尊敬されてた地位の人たちは犯罪者として裁かれ、「神」は「人間」になりました。
このような突然の変化には注目が集まるので、みなで一斉に適応します。
やっかいなのは、目に見えにくい変化です。
日本経済が右肩上がりの時代は借金してでも持ち家を持つことが一般人が資産を増やす最も有効な手段でした。
当然、不動産価格が価値に見合わないほどまで値上がりしているという状況を見落としていた人たちはバブル崩壊で、とても痛手を受けました。
同じように、知識や情報も多ければ多いほうがいい時代がありました。
「豊かにある」も今やモノによっては逆の価値に
明治時代はそもそも学力や適正に関係なく大学まで行ける人自体が少なく、大学出というだけで優遇される立場になれました。
「知識や情報は、多ければ多いほどいい」
けれどその背景や前提がいま徐々に変わりつつあります。
かつて、豊かさの象徴であった豊満さが現在は「自己管理能力の低さ」というマイナス評価になっています。
それだけでなく、そもそもの食料供給環境や食文化、食習慣と収入や社会的立場との相関関係から、肥満は貧困の一形態だとまで言われるようになりました。
WTOの2008年の公表資料では
飢餓人口約10億人に対して、肥満人口は約20億人
ついに肥満が飢餓の2倍になっています。
「十分に食べれない」問題よりも「質の低い物ばかり食べる」問題の方が
大きくなってきているのです。
情報に関してもいまわたしたちは、
「質の低い物ばかり食べている」
情報肥満を疑ってみる価値はあります。
質の低い情報で【貧困層】にならないために
たとえばテレビ視聴。
たとえば具体的な行動につながらないメールマガジン。
たとえばSNSやニュースサイトのネットサーフィン。
たとえばただ刺激を求めて購入する教材や書籍。
脳の仕組みを少しでも知っている人なら、無意識にぼーっと眺めるだけであっても、質の低い情報が破壊的な影響をもたらしうることを多少なりとも警戒して情報に触れます。
自分の本当にやりたいこと、
自分のゴールにとって重要なこと、
自分の幸福感を高めること。
内容の質に無自覚なまま大量の情報を摂取する人々が【情報肥満】という名の貧困層としてカテゴライズされる日も近いかもしれません。
意志力に頼らずに習慣や結果を変えるのにオススメなのは
・無意識にテレビつけないようにコンセントを抜いて
リモコンの電池を抜いて隣の部屋に置く
・開封していない、内容を見ても行動していない
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今日中にできるので、ぜひどうぞ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。