半人間・半意識というアイデア
2024年5月19日(日)に東京流通センターで開催される文学フリマ東京38※に再び「牽引社」として出店する。その際にまたちょっとしたエッセイ的な本『半人間・半意識論』※2を出す予定になっている。今回はその目標とすることについて紹介したい。
※ 今回から入場料1,000円(税込)となる。
※2 初版200円を予定。
身近な人との「対話」のための哲学
最近思うのは、どんなにあれこれ哲学・思想を沈思黙考しても、それは結局のところ私達自身にとって重要な他者とのコミュニケーションのなかで利用されることによって意味を持つ、ということだ。本を読んで一人で考えるのが哲学だ、というイメージもあるが、それは一面では正しく一面では間違っている。
哲学カフェというのが世間では流行っている。筆者も、もう8年くらい前になるが、そういった集まりに参加していたこともある。しかし、ここで言いたいのはもっと実践的な場面だ。例えば耐え難いコンプレックスを抱えている人と一緒に暮らしたことがある方なら、そのコンプレックスが日常の様々なところで少しずつ堆積して、最後には爆発してしまう場面をよくご存知だろう。コンプレックスがなくても、人生についての考え方とか、ものの見方、考え方についての話し合いが持たれる場面はある。
哲学がそうした場面に直接引用されるかは定かではないが、多くの場合には引用自体が悪手である。だから、哲学をよく勉強し、それを自分の言葉にできる人だけが、本当の意味でその果実を手にすることとなる。
混乱する「対話」
しかし、通常の哲学の体系立てられた議論と違って、普通の人たちが腹を割って話し合うと大変な”カオス”を呼び起こすことになる。特に普段そうしたことをしない人たちはそうだ。概念の努力が為されていないので議論がゴチャゴチャになるし、決めつけや隠蔽、焦燥、困惑・混乱などいろいろなことが起きる。
哲学を身につけようと普段から努力している人にとっては、こうしたカオスは馴染み深いと同時にやや疎ましい。なぜなら自らの中にもあるそうしたものを何とか馴致することによってしか、哲学的な体系をものにすることはできないからだ。自らは既に通り過ぎた過去の困難を、今度は人との間に見出すということになる。
ところが、基本的に一人であれこれ悩みつつ哲学をするときと違って、こうした場面でカオスを鎮め、体系化された議論を導入することはほぼ不可能である。何しろ皆忙しいので、そんなにこの議論に時間を割けないのだから仕方がない。また、この状況が前提としてあるからこそ、哲学カフェなどのような場を作って、少しでも”ナットクの輪”(ないしは”ナットク”が難しいという共通認識)を広げられたらいいな、という気持ちも共有されるのだろう。
つまり、このような実践の場において私達が利用できる”資源”はかなり限られている、ということを意識する必要がある。もしかしたら、そのなかで哲学を利用するためには、分かりやすい表現と圧倒するような説得力を備えた発話でなければならないのだろうか。しかしこれではソフィストそのままではないか?
このような需要のあるところに、私としては「半人間」とか「半意識」という考えを利用できるのではないかと思っている。
人間学でも無意識でもなく、、
私自身、人間学とか無意識ということに興味はあったし、少し調べても見るのだが、どうしても入り込めないところがある。それは、端的にいえば「本質」についての議論が錯綜してしまうからだと思う。以前の記事で書いたが、本質と見立てをよく区別しなければ、私達は強迫的感覚の虜になってしまう。その点について、果たして十分な担保ができるだろうか?それも、普段は哲学をあまり考えず、基本的にその内容を鵜呑みにするか、拒否するかの選択しかできない場面において?
なお、人間概念の可変性(歴史性)が指摘されているのを私は知っているし、人間概念が古くなり、捨てられる可能性についての議論も見たことがある。ただ、私としてはそのような相対化だけで満足できなかった。無意識については、そのイメージからして根底的なもの、目に見えない本質、という意味が備わっている。その点がやはり問題に思う。
半人間という言葉は今まで聞いたことがないし、半意識は一部で「無意識」の別名として利用されたこともあるが、ここでは全く新しい意味を負わせている。
反省しない部分
半人間について、私は「反省しない」という条件を与えている。パスカル「人間は考える葦である」を思い返せば分かるように、人間であるということには反省が深く結びついている。また”無意識”でも反省は行われているとされている。しかし、そういったことを取り敢えず等閑視して、反省しない部分だけを取り出す(この操作について半意識と呼ぶことになる、、)ことによって、半人間と称するわけである。
このように半人間を捉えることによって何が良いか?それは、よくある議論で「そんなことも反省しないのか、、!」という”詰め”について、それが即座に非人間に結びつくのではなく、あくまで半人間を言い当てている、というように捉え返すことができる。もちろん、これは一例である。
半意識については既に半人間の説明で少し利用してしまったが、これは意識された”意識の一部”を意味している。やや抽象的すぎるかもしれないので言い直すと、「私はこういうふうに考えている(部分もある)」という意識があったときの、その言い当てられた部分を半意識と言っている。無意識と違うのは、あくまで捉えられている、ということだ。
半意識の利点は抽象的な議論になってしまうが、何らかの本質的なものの現れとして行為や意識を捉えない、という点にある。もちろん、意識の中で動いている反省されない部分はあるのだが、それを”触れられることのない聖域”にしてしまわない、ということである。口論のなかで「無意識にそんなことをするなんて、最悪だ!」という非難がよくされる。そういうとき「無意識は本質だから手が出せない。だから単純に駄目な人間なんだ」という極論に至らないために利用できる。これもまたあくまでも一例である。
結局は難しい
さて、ここまでの内容から言っても、私としてはちょっと面白い話にできたのではないかと思う。ただ、実際のところ半人間とか半意識の内実をあれこれ考えだすととても難しい。
本のなかでは自然のこととか、各哲学との関連とか、経済・科学への応用にも触れてみたが、とてもではないが十分とは言えない。所詮アマチュア(アマチュアとさえ言えるか、、)哲学の域を出ない。とはいえ、これまでの議論も総動員してなんとか形にはしているので、ご興味が湧いたら、是非文学フリマ東京にて手にとって見てほしい。