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死ねる場面が訪れたら本当に死ねるか

※不謹慎だと思われるような記事になっています。表立って言えないことを表現する場としてnoteを利用していますが、不快になられる方がいたら申し訳ありません。


JALの航空機炎上のニュースが流れたとき、ふと思った。

「私は死ぬという目的を果たすために、機内に残り続けることができるか」ということを。

「私、ずっと死にたかったんです。今日は、この願いを叶えられる奇跡的な機会なんです。私だけ、ここに残して皆さんは逃げてください。お願いですから、どうか死なせてください。」

果たして言えるのだろうか。

JALの添乗員の方々からしたら、とんだ大迷惑である。

さて、この言葉を伝えたら「一人でも多くの乗客を救わなければ」と思っている添乗員の方々も、私を放置してくれるのだろうか。

死ぬ時は周囲の人にできるだけ迷惑をかけたくない、という思いがあるので、説得もせず、さっさと放置してくれた方が助かる。

今年は5回飛行機に乗る場面があった。

毎度、飛行機に乗る度に心の底から「お願いですから神様、もう死なせてください」と思っている。

もちろん、私だけが死ねたら良いので「墜落しても、私以外の全員は助かってほしい」とも思っているが。

そこまで死にたいなら一人で家で死ねよと、思われるだろうが、首つりには今まで何度も失敗している。

飛び降りなら・・・・と思ったが、

1回でもベランダの手すりの上に立ってみた人なら分かると思う。

「こっちの方が首つりよりかなり難しい」ということを。

自分の「死にたい」という意思とは裏腹に「飛ぶのが怖い」と思ってしまうのだ。

痛い思いはできるだけしたくない、そういう臆病者なので今まで生き延びている。

だから、強制的に「死ぬしかない運命」に出会いたい。

たとえば、殺人(虐待を受け続けて・・・など、散々苦しめられた後に殺されるのは嫌だが、出会ってからサクッと刺されるのは構わない)、交通事故、など。

あまりにも常日頃から「死にたい」と考え過ぎて、眠っているとき「死ぬか生きるかの場面に立ち会う」という夢を見ることがよくある。

火事で火に包まれている家の中に取り残された夢を見たとき「ここに残ったら死ねるけど、脱出するのか」と夢の中で迷っている自分がいた。

その時の夢の中の自分は「それでも家から脱出して、生きる」という選択をできた。

自分が幽体離脱したときの夢では、たくさんの人が私の帰りを待っていてくれたが、「もうこの世には戻らない」という選択をして、天国に向かう選択をした。

自分の意思によっては、生き返ることができる、という場面だったが、私はあえて「死ぬこと」を選んだ。

もうこの世に戻れないと思うと寂しさはあったが、「もう苦しまなくて良いんだ」という解放感の方が大きかった。

うれし泣きしながら、そのまま天国に飛んでいけた。笑

夢の中で私は夢だと気づいてないので、自分の中では「現実」である。

その中では、上記のように、「生き残る」という選択をしたり、「もう死ぬ」という選択をしたり、ばらつきがある。

生きるか死ぬかの場面が実際に訪れたとき、私はその時の気分によって、生きることを選んだり、死ぬことを選ぶのだと思う。

どちらの選択をするのか、そもそも「強制的に死ねる場面」に出会えるか、そんな奇跡が起こるのかは謎だが。











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