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ひかげのたいよう #20

 治療を続けながらの妊娠・出産・育児には不安がつきものだった。妊娠がわかると当時の担当医からは
「本来なら、当院では妊婦さんの受診はお断りさせていただいてるんです。」
と言われた。妊婦はただでさえ飲んではいけない薬が多くて、治療なんて続けられたもんじゃないというのが現状だ。私の場合はたまたま妊娠前から通っていたこともあり通院を継続することができたけれど、この病気と妊娠との間には大きな壁があるのを改めて感じた。
 私の場合、つわりが始まると処方されていた漢方薬を飲むのが辛くなり、一旦処方を止めてもらった。診察だけに切り替えて通院を継続したのだが、妊娠後期から産後にかけて、今までのイライラや苦しみが嘘のように姿を消したのだ。出産を経て心にも変化が現れたのかもと、私はこの変化を前向きに捉えた。幼い娘を抱えて病院へ通うのも大変だったこともあり、また調子が悪くなったら予約を入れることにして、通院を止めることにしたのだ。しかし私の話を聞きながら不安そうな表情を浮かべた担当医がこの時予想していたであろう事は、いずれ現実になる。
 調子がよかったのも産後の半年ほどで、娘が成長するにつれて再び苛立ち始める私がいた。毎日娘とだけ向き合って過ごしていると、頭がおかしくなりそうだった。誰かに頼りたくても、私の病気に対する理解は乏しい。市の制度に頼るなんてもってのほかだ。生きる意味を失くしてしまったあの頃のように、誰にも悩みを打ち明けられないでいた。そんな苛立ちを旦那と娘にぶつけている私は、まさに“あの人”そのものだった。私は被害者だったはずなのに。このままだと娘が私と同じ人生を歩むことになってしまう。恐怖が押し寄せた。“加害者になろうとしている私”は、この子の為に何とかしなければと立ち上がる。良くなるだなんてこれっぽっちも思っていない。それでも被害者が加害者になるという明らかな矛盾は、どこかで食い止めなければならない。私は娘を愛していた。会いたいと自ら望んだ命だった。治らなくてもなんでもいいから、この状況を変えたかった。
 不安な気持ちが少しでも紛れたらいい位に思って病院を探し始めた私に、親友の幸がいい先生がいると紹介してくれた。幸もずっと様々な悩みを抱えていた。
「私が通ってみてすごくいい先生だなって思ったから、じあんちゃんも行ってみるのどうかな?」
 確かに、そこへ通い出してから彼女に変化が起きていたことは知っていた。その変わっていく様を間近で見ていたから
ーいい先生に巡り会えたんだ。よかった。
と自分のことのように喜んだ。その先生を紹介してくれたのだ。持つべきものは友、とは本当にその通りだと思った。実は前々から気にはなっていた。けれど誰しも自分のテリトリーがあって、それを侵されることほど不快なものはない。私からは聞かないでおくことにしていた。
「きっといい方へ向かっていけると思うから、一緒によくなっていこうね。」
 幸はこんな私にも温かい言葉をくれる。早速予約を取り診療所に通い詰めた。幸の言っていた通り、とても信頼できる先生だった。今までの医者であれば何言ってるんだと首を傾げるような話も、この先生は受け入れてくれる。
ーやっと相性のいい医師に出会えたかもしれない。
 この先生なら私の心の闇を晴らしてくれるかもしれないと、初めて治療に希望の光が差した。診療所へはバスと電車を乗り継いで、往復で二時間くらいはかかる。この時はまだ娘が幼稚園に通いだす前で、月に二回通うのは至難の業だった。薬が変われば、様子を見る為に一週間後に再度訪れなければならない。大変ではあったけど、精神的ハンデを負っている私に寄り添ってくれる先生を、心から信頼していた。だから私はなんとか頑張れた。
 ここで診察を繰り返していく中で、私は複雑性PTSDだということがわかる。その診断が下された日、うつ病だと言われた時の違和感が遂に明らかになった。今まで説明しようのない感情に何度も襲われて、その正体が何なのかわからず、解決策を見出せずにいた。ここへ来て、それら全ては“あの人”との関係が生み出していたのだという確信に変わった。ひとつ肩の荷が下りたような気がした。うつ病と言われてから十四年後、ようやく正しい診断が下され正しい治療が始まる。この十四年間は途方もなく長い年月だった。

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