人間関係を支えているものは、動物的欲求を満たすことで生まれる「余白」かも
全ての悩みは対人関係の悩みだと心理学者のアドラーは言う。では、健全な人間関係とは何だろう?
✳︎健全な人間関係とは?✳︎
私が認識する健全な人間関係とは、考え方や状況や状態、外見や内面、才能、国籍、経歴など、個人を構成するあらゆる要素について、相手と自分との間に例え違うことがあったとしても、羨ましいと言って劣等感を持ったり、逆に見下したり、そういう上下関係を作るとか、変えようとしたり、何か意図をもって接したり、それを利用したりしないことだと捉えている。
✳︎ 重なれば嬉しい。重ならなくても嬉しい✳︎
とはいえ、わたしも人間なので、頭では分かったつもりになっても実際は、羨ましいとか誰かと比べて不安になったりする事も時々ある。そんな時、思い出す言葉がある。
「重なれば嬉しい。重ならなくても嬉しい。」
「合意しない事にも合意している」
お互いに構成する要素の重なりが多いほど、当然親近感は湧く。多少の違いは刺激として魅力やスパイスになる。でもあまりに違いすぎると分かり合うのに苦労する。そのバランスをいかにして取るかは非常に微妙で、どこがその最善のポイントなのか、今の私にはまだ上手く言語化出来ない。でもこれを思い出すと、「人それぞれ持ってる強みが違うから、生かし合い補い合えばそれでエエやん。それだけのことやん」「あとは、他人の足を引っ張る事で相対的に自分価値を上げようとする人にさえ気を付けたら良いだけ」と、人間関係が随分シンプルに思えてくる。
✳︎分からなさ、未知、不確実性を受け入れる為の「余白」✳︎
人間は一人一人育ってきた環境や過ごしてきた経験が必ず異なる。だから人が2人以上集まれば、重ならない要素は必ずあるはずで、その不確定な要素、不確実性、自分が持ってない未知の世界を受け入れるための余白をあけておくことが、人間関係を継続する事において大事なのだと私は思う。
✳︎弱ってる時ほど唯一の正解に飛びつきたくなるけど・・✳︎
何かが起きた時や焦っている時はついつい「白か黒か」の2択しか答えがない気がするし、ひどい時は気持ちにゆとりを無くしすぎて視野が狭くなり、2択どころか、何事にもまるで数学のような唯一の正解しかないような気分になって、思わずその唯一の正解やその正解を断言してくれる人に飛びつきたくなる。でも私の経験からすると、大体それはまさに典型的な失敗パターンだったりもする。
だからこそ「好きか嫌いか」「敵が味方か」「白か黒か」みたいな2択や「唯一の正解」が欲しくなった時は、「答えを出すこと自体を保留する」「グレーの中にもグラデーションがある」という事や、常に選択肢が無限にある事を意識的に頭の中に描き、とりあえずまずは視野を狭めないようにすることに意識を向ける。
✳︎「弱ってる」時ってどんな時?
そして、案外その視野の狭さや焦りの原因は、単純に疲れや睡眠不足、空腹だったりもするので、あれこれ考えて深掘りするのを一旦やめて「あー今疲れてるんだな」とだけ思うに留め、ココアを飲んだり甘いものを食べて血糖値をあげたり早めに寝る。(ちなみに薬膳的にも「不安な時に飲むココアは良い」と言われている。)すると意外と自分の中の余白が復活していて、前日よりも少しだけ寛大になっていたり、視野が広くなっていたりすることがある。
✳︎偉そうに悩んでるけど、誰もが「人間である前に動物」✳︎
そんな時、「なんだかんだ言っても人間は動物なんだな」とつくづく思う。そして「散々悩みあぐねても、結局はそんな原始的な欲求が悩みの根源だったんかい!」とツッコみたくなるし、相手にぶつける事なく自分の隠れた動物的な欲求に気づき、満たすことで衝突を避けれた自分に「ナイス!」と言いたくなる。
✳︎余白が生み出すモノ✳︎
余白は許容と俯瞰を呼び、俯瞰は人を理性的にする。人間は人間である前にまずは動物であり、動物としての「生」を確保できてこそ、人は理知的でいられる。
誰かと健全な人間関係を結ぼうと思うなら、まずはそれを阻害している自分の不寛容の影に隠れた自身の欲求が何なのかを見つめ、まずはそれを満たし、心と頭と時間、気力・体力に余白をつくる。
余白があると不思議と不確実性が敵ではなく、刺激や面白いものに見えてくる。分からなさや未知、不確実性への反応は、ある意味自分自身の欲求充足に対するバロメーターなのかもしれない。