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昭和10年代の台湾-溥儀皇帝の性癖

大武(山)西麓のパイワン族蕃人某社に黒々の風習があって、青少年同志が互いの陰茎を口に含み快楽を得る者が多いと云う。日本の男色衆道と異なり女役は存在せず専ら快楽の遊戯に浸る事を旨とするが、過去隣社の男を鶏姦(けいかん)し大事件となった事もあるそうである。此の話には続きがあって、或る鮮人が陰茎の快楽を得る為此の蕃社に赴くも肛門を大怪我し陸軍病院に運ばれ大馬鹿モノ笑いとなった由。

(『昭和丙子(1936)台湾屏東之旅』より)

この日記には性愛に関する言及が結構あって、こういう怪しからんことが結構な頻度で得々と書かれています。

鶏姦の語源

ところで鶏姦とは肛門性交のことで、レファレンス協同データベースを読むと、高槻市立図書館の司書さんが「鶏の一穴から」と単純明快に説明してくださっています。

要は「鶏は性交も排泄も一つの穴で行う」という意味ですが、それではなぜわざわざ鶏を選んだのかという疑問が残ります。

この答えとして、「鶏」とは中国語由来の隠語であること(そもそも中国語の「鶏」には、男性器や売春婦など、あまりよろしくない意味があって、この言い回しは現在も使われている)、つまり、中国大陸から日本に輸入された隠語表現であることが理解をさまたげている理由であるとぼくは考えています。

国立肛門書館「鶏姦律条例」より)

ところで明治初期の日本には「鶏姦律条例」というものがあり、ようは鶏姦した者は懲役90日の罰則があったのですが、現実にはほとんど適用されないまま廃止されました。

明治政府は別に同性愛を否定したわけではありません。勉学や就業にいそしむ青年男子が同性愛行為によって気を散らせてはならないという地方からの陳情に応えたわけですが、結局「実態」に打ち勝つことができず、その後廃止されています。

ちなみに当時は手淫(オナニー)も青少年にとって害の大きい行為とみなされていましたが、こちらはさすがに法規で制限しようとはしなかったようです。

とても物騒だった 当時の台湾の鶏姦

ただ、男色や衆道ならともかく、鶏姦といわれるとあまりよいイメージはありません。この日記の筆者もいささかこの行為を侮蔑しているふしがみられます。

ところで当時の台湾の鶏姦について調べていると、1921年に出版された『台湾風俗誌』にこんな記事がありました。

またこれ台南法院にて審理されたるものにして、その会社の苦力(人夫)に甲某あり、年齢二十、すこぶる美貌にして性また朴直なり。同寮に乙なる苦力あり。性猛悪多淫、常に甲の美貌を愛して鶏姦を挑む。甲深くこれをにくみ、一日友人の助力を得て乙の両眼を指にて刳り出し全く盲者となす。のち訴廷に送られ弁じて曰く、「余常に乙より鶏姦を挑まるるに苦しむ、ゆえにもし彼の両眼を失明せしめれば彼れ余を見ることを得ずして禍もまた免るべし」と。

(『台湾風俗誌(台湾の私刑)』より)

この用法は明らかに犯罪の部類にあります。「美貌を愛した」者による鶏姦ですから、いわゆる代償的同性愛にあたるものでしょう。鶏姦の代償は両目失明という悲惨な結末となってしまったわけですが、その後この甲某や乙某はどうなったのでしょうか。

刀妃革命-溥儀皇帝の疑惑

ところで当時の日本ではまったく知られなかった話題ですが、中国大陸では、同性愛に関する大きな疑惑がありました。

当時の満州国・溥儀皇帝に関するゴシップとして、溥儀氏は同性愛者であり、婉容皇后とは仮面夫婦であったという疑惑がありました。

発端は1931年8月25日、溥儀氏の第二夫人をつとめていた文繡氏が天津地方法院に対して溥儀氏との離婚を求めたことからです。

文繡氏

離婚に至るまでに込み入った事情があったようですが、ともあれ離婚を突きつけたというインパクトは絶大で、当時「刀妃革命」などとよばれ大騒ぎになった事件です。ちなみに二人の離婚は同年10月に成立しました。

文繡氏は、やりとりのなかで9年間の夫婦生活のあいだ溥儀氏との性的な関係はまったくなかったと表明していますが、このとき溥儀氏は同性愛者であることにも言及しています。

溥儀氏が同性愛者であったかどうかについては、本人が亡くなっている以上判然とはしませんが、宦官の王鳳池氏と関係があったことがしばしば言及されています。

自伝『わが前半生』にも自身の性癖についてわずかに言及しており、また溥儀氏の弟・溥傑氏と結婚した愛新覚羅(嵯峨)浩氏なども自伝のなかでわかりやすく記載していますので、興味のある方はご一読されることを勧めます。

ただ、性器のない宦官との性愛を同性愛とよぶべきかどうかは素朴な疑問だったりするのですが。

左から2番目が王鳳池氏。目鼻立ちが整っていることがわかる。

なお、1986年に公開された映画『ラスト・エンペラー』の序盤部分には溥儀皇帝の性癖に言及したくだりがさらりと描写されています。

私生活を知る者

その後溥儀氏は満州国皇帝となりますが、彼の私生活を知る婉容皇后は無視され続け、御用掛を務めた日本人・吉岡安直氏に至っては自伝『わが前半生』のなかではこれ以下の存在はないというほどケチョンケチョンに書かれています。(もっとも、吉岡氏については溥儀皇帝の行状や無理難題に相当苦慮させられたのではないかと思います。)

婉容皇后

婉容皇后は悲惨でした。仮面夫婦であることに苦しみ、その後アヘンに溺れ、溥儀氏以外の男性とのあいだで子供をもうけたのですが、その赤ちゃんは生後すぐボイラーに放り込まれてしまっています。

婉容が生んだ子は自分の子ではないという強い確信は、二人がセックスレスであったことを示しているにほかならないわけです。なお、彼女は満州国崩壊後悲惨な死を遂げました。

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