zh_hiroshi

百年前の台湾旅行🍦数年前、箪笥の奥に眠っていた日記を見つけました。そこに書かれていたの…

zh_hiroshi

百年前の台湾旅行🍦数年前、箪笥の奥に眠っていた日記を見つけました。そこに書かれていたのは日本統治時代の台湾花柳界や闇社会の話。二年かけて解読し活字化したのですが、見えてきたのは百年前の台湾の姿でした。仕事が閑散期になったら時どき更新。https://bit.ly/3IFXbgZ

マガジン

  • 昭和10年代の台湾 あれこれ

    当時書かれた日記(1936年・1940年)をもとに、昭和10年代の南部台湾についていろいろ調べてみました。百年もたっていないのにわからないことだらけ。

  • 1995年の台湾 クォーター・センチュリー

    昔書いた日記ノートが出てきました。今から25年前の台湾の話をあれこれと。当時の日本人は信じられないくらい台湾に対して無関心でした。その謎の島・台湾で起こったいろんな出来事、食べ物の話、素敵な人達の話、そして張雨生の音楽まで。

  • 1940年 宜蘭・花蓮・台東の記録

    昭和15年(1940年)に台湾東部を旅した記録をまとめました。 当時の宜蘭・礁渓温泉・蘇澳、特に多くの沖縄人が出稼ぎしていたことが垣間見えますが、相変わらずえげつない日記です。

  • 1936年 屏東の記録

    昭和11年(1936年)に屏東を旅した親族の記録をまとめました。ただ、内容は相当えげつないので、読み物と思い読んでいただければと思います。

最近の記事

  • 固定された記事

昭和10年代の台湾-台北の女装街娼と喜多川諦道(ジャニー喜多川の父)

この文章は1940年9月、筆者が基隆から台湾を去る際に書いた記録です。基隆で二泊したそうですが、台北には行かなかったようです。基隆から台北までは汽車で一時間なので、どうせならちょっと立ち寄ってもよかったのでしょうが、日本に帰らなければならない気鬱も手伝って、その気分にはなれなかったようです。 おとこおんなの街娼 台北駅の西側に「萬華」という地区があります。「ばんか」とよむ人もいれば、「まんが」「もんが」とよむ人もいるのですが、この地区は日本統治時代から繁華街として知られた

    • 昭和10年代の台湾-宮廷菓子と市長の息子

      京兆尹〈けいちょういん〉 青春時代に台湾を訪れた際、私は仁愛路にある 京兆尹 という菓子店によく立ち寄っていました。京兆尹は宮廷料理や菓子を専門とする飲食店で、名前の「京兆」とは首都(特に長安)を、「尹」は長官という意味です。日本語にすると「都知事」といったところでしょうか。 京兆尹本店に行ったことがないという方も、かつての台北の故宮博物院には京兆尹のカフェが入っていたため、記憶に残る人はそこそこ多いかもしれません。 ただ、京兆尹は薬膳の店というイメージが強く、味つけが

      • 昭和10年代の台湾-シャカトウ(釈迦頭)

        釈迦という果物 台湾ではもうじき「釈迦」の季節を迎えます。日本ではシャカトウ(釈迦頭)やバンレイシ(蕃茘枝)、あるいはシュガーアップルなどと呼ばれ、9月から翌年2月にかけて旬を迎えます。日本では一般的には流通しておらず、沖縄など一部地域で類似の果物を見かける程度です。 さてこの釈迦という名前ですが、ありがたい食べ物なのか、それとも不謹慎な名前なのか、北京語を学んでいくなかで一度は議論の対象になったんじゃないでしょうか。ただ、季節になると仏寺だけでなく道観にも飾られています

        • 昭和10年代の台湾-蘇澳冷泉の話

          年度末が近づき、ぼくの現実逃避も佳境に入ってきました。どこか旅行に行きたい気分だったりしますが、目の前の書類は「それを許さじ」と言ってきたので、結局近所にあるコミュニティセンターの図書室に行くくらいです。 もう20年以上前の話になりますが、ぼくは台湾東部にある人口4万人の小さな港町である蘇澳(スーアオ)鎮を訪ねたことがあります。 かつては宜蘭線の終着駅として栄えていたところですが、台北でもなく高雄でもなく、とにかく昔ながらの台湾の雰囲気が相当濃厚に残っているところです。た

        • 固定された記事

        昭和10年代の台湾-台北の女装街娼と喜多川諦道(ジャニー喜多川の父)

        マガジン

        • 昭和10年代の台湾 あれこれ
          24本
        • 1995年の台湾 クォーター・センチュリー
          6本
        • 1940年 宜蘭・花蓮・台東の記録
          6本
        • 1936年 屏東の記録
          8本

        記事

          昭和10年代の台湾-1枚の紙幣から

          ものの値段の話が書かれている一節です。 この手の話をしていると、戦前の植民地ではどのようなお金が使われていたのかという質問がありましたが、今日はこのあたりの話ができればと思います。 当時の外地通貨 当時の日本では、内地(つまり現在の47都道府県+樺太)と外地では紙幣の種類を分けていました。 仮に外地の紙幣を内地と同じものにしてしまうと、仮に外国からの攻撃を受けるなどして銀行が占領・接収されると内地経済にまで影響してしまうからで、自国経済が外国やグローバルの荒波から守ること

          昭和10年代の台湾-1枚の紙幣から

          昭和10年代の台湾-日の丸少年と大地震

          あけましておめでとうございます。くしくも、この記事を書いている矢先に北陸地方で大地震が起こったという報道がありました。心よりお見舞いを申し上げます。 乙亥の歳(1935年) 「昭和丙子台湾屏東之旅」の筆者が台湾南部に滞在していたのは1936年から1940年までです。残されていた記録には地震に関する記載は出てきませんので、その間、台湾では大きな地震に見舞われることはなかったようです。筆者は和歌山出身だったので小さな地震には慣れっこだったという事情もあると思います。 しかし

          昭和10年代の台湾-日の丸少年と大地震

          昭和10年代の台湾-翡翠は誤解だらけの宝石

          今日は緑色の宝石・翡翠の話です。 瑠璃玉については過去に別の記事で言及していますのでここでは省略しますが、翡翠のことを書いていませんでしたので、ここで少しまとめておきたいと思います。 そもそも翡翠は日本人にとって誤解だらけの宝石で、台湾人と話をしていても話がかみ合わないことがしょっちゅうあります。その背景には、翡翠に対する認識が大きく異なることにあるのではないかと考えます。 日本人が考える翡翠の誤解 その1 一つ目の誤解は、日本人が考える翡翠と台湾人中国人が考える翡翠は

          昭和10年代の台湾-翡翠は誤解だらけの宝石

          昭和10年代の台湾-米粉〈ビーフン〉と蓬莱米

          わたくしごとでなんですが、ここのところ本来の仕事が佳境に入っていて、何かを綴ろうとしても頭のなかが全くもってまとまりのない状況が続いていたため、ひさかたぶりの更新となってしまいました。 当面はこのような生活が続きそうですが、折を見ていろいろ書いていきたいと思います。 ビーフンを口にした日本人の反応 ところでわたくしは自宅では米よりもビーフンを食べることのほうが多く、「新竹米粉」や「ケンミンの焼きビーフン」は台所のどこかに必ず置いてあって、数年前の緊急事態宣言で商店が閉まっ

          昭和10年代の台湾-米粉〈ビーフン〉と蓬莱米

          一九九五年 台灣⑹ - クォーター・センチュリー 〈蘭嶼〉

          蘭嶼は台東市の沖数十キロの先にある離島で、北京語で「ランウィ」と発音する。台東からプロペラ機が飛んでいるけれども、就航率が悪く台東市で何日も待たされた記憶がある。台湾特有のどんよりとした曇天のなか、あちこちを歩いてみたことがあるが、台東で最も栄えているとされる台東駅(※現在の台東鉄道芸術村)の周囲にはさほど大きくない市役所と師範学校、そして観光夜市がある程度で、とりたてて目立つものはなかった。台東新駅(※現在の台東駅)に至っては、さらに輪をかけてなにもないところだったが、十年

          一九九五年 台灣⑹ - クォーター・センチュリー 〈蘭嶼〉

          一九四〇年 台東⑵ - 知本の警察温泉

          東街は屏東市の十分の一の規模にして全てにおいて小振りにして閑かであるが、監獄だけは立派で全台の凶悪犯を集めていると云うから、けだしオーストラリヤのごとし。書店に寄ると時局本が入荷されたという張り紙がデカデカと張られ不愉快になったが、自分は吉川英治の小説を買いたいのに「日本人必読」等と称しヒトラー氏の本を売りつけようとする台湾人店員にホトホト閉口した。 ところで日本人はかような僻地でも総督府警察の支所を設け「我らこそ一等国民なるゾ」と威張り腐っているのであるが、多くは内地の部

          一九四〇年 台東⑵ - 知本の警察温泉

          一九四〇年 台東⑴ - 潮州・寿峠から台東へ

          潮州を出た自動車は寿峠を越え途中何度かの休憩を取り漸く太平洋を眺め台東に至る。昨日の送別会ではなにゆえかような旅程を組んだのかと相当に嗤われたものであるが、自分は内地には帰りたくないし、どうせならえちらおちらと往くにしくは無しと思い、ヨシ、東台湾巡りでもしてみようと思ったのであるが、車中からつらつら太平洋沿いの平地にへばりつくように建てられた部落を眺めていると、山を距てた向こうの町の噂などついぞ聞くことはなかったことに改めて気づかされる。 東台湾はかつて卑南大王の治める蕃人

          一九四〇年 台東⑴ - 潮州・寿峠から台東へ

          一九四〇年 花蓮港 - 福住遊郭とパインアップルソーダ

          花蓮港は清国人が名付けた支那らしい名前の町だが、町に蓮はなく、支那らしさもなく、ただ高砂族に威を示すせいか駅や役所や寺社仏閣やらは軒並みに立派であった。花蓮港に住んでいるのはケタ糞の悪い軍人と御用商人の眷属ばかりで、ほとんどの日本人は吉野という郊外部落に住んでいると云う。またこの辺はあちこちに屏東や台東とは違う種類の高砂族がいるが、花蓮のアミ人はとりわけ素朴な美女が多く、台北や基隆から直通列車を通せばアレ目的に大きく栄えると思う。名物のアンコイモを二個食べる。花蓮港は天気悪く

          一九四〇年 花蓮港 - 福住遊郭とパインアップルソーダ

          一九九五年 台灣⑸ - クォーター・センチュリー

          最近の、特に今年度に入ってからぼくは仕事がかなり忙しくなって、台湾に行くどころか日々のことすらままならなくなってしまいました。無聊を慰めるために自室で台湾に関する本を何冊か読んでいましたが、いくつか思い出したことがありましたので、忘れる前に書いておこうと思います。 「再会」 から感じるうすら寒い南国 宮脇俊三氏の「台湾鉄路千公里」は、西暦1980年に氏が台湾を訪ねたときの鉄道旅行記で、少し前の台湾の鉄道について調べたい人にとって(日本人のみならず台湾人においても)必須アイ

          一九九五年 台灣⑸ - クォーター・センチュリー

          一九九五年 台灣⑷ - クォーター・センチュリー

          一九九五年の当時、ぼくが台湾で学んだことは、第二次世界大戦後の台湾の歴史そのものであった。 時代の怪獣 ぼくの台湾への理解は今なお断片的かつ不十分なものにすぎないが、日本統治時代から今に至る台湾の歴史はとても暗く、そして重苦しい一面を持っていることに改めて気づかされた。戦後の台湾で二二八事件や美麗島事件が起こったことなど全く知らなかったし、長い戒厳令の時代を単に「不気味」というひとことで片づけていた。これでは「台湾認識」などできない。 当時ぼくは九份を訪ねたことがある。

          一九九五年 台灣⑷ - クォーター・センチュリー

          一九九五年 台灣⑶ - クォーター・センチュリー

          当時の台湾では「認識台湾」という言葉が流行していた。日本語では座りが悪い並びなので、ぼくは「台湾認識」とよんでいたが、当時、台湾に関する小さなスピーチを行うときのテーマは決まって「私の台湾認識」というたぐいで、このスピーチを発表しあうことで私たちの台湾への認識が深まり、そして自身の価値観の基盤に組み込まれていったという印象がある。 黒夜光明(闇の向こうにある光明) この頃の日本は「平成」という元号を使っていた。元号というのはアジア諸国で使われている年数の数え方で、現在は日

          一九九五年 台灣⑶ - クォーター・センチュリー

          一九九五年 台灣⑵ - クォーター・センチュリー

          ぼくが初めて台湾に足を運ぶまで、台湾に対するイメージといえば、年長者から聞いていた一九七〇年代の台湾の話、つまり冒頭で述べたような売春旅行のたぐいであった。話は少し脱線うえ、かなり長い文章となってしまったけれども、一九九〇年代半ばの台湾を語るための前提として、ぼくが過去に聞いた話のあらましをここに書いておきたい。 啓程好日(いい日旅立ち) 一九七〇年代のアジア旅行といえば、大人の男が売春目的で行くところというイメージがあって、当時の行き先は台湾や韓国が中心で、八〇年代に入

          一九九五年 台灣⑵ - クォーター・センチュリー