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1936年 屏東の記録

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昭和11年(1936年)に屏東を旅した親族の記録をまとめました。ただ、内容は相当えげつないので、読み物と思い読んでいただければと思います。
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記事一覧

一九三六年 屏東⑻完 ー 屏東は妓業さかんにして

ところで台湾人は殆どが良民であるが、悪人は相当に残酷狡猾の徒であり、我々も日本を離れて南国風情に酔いながら蕃地視察だの温泉療養だのにかまけて居る内はまだ好いが、軽い気持ちで台湾で一旗揚げようと云う日には大小無数の罠がパックリと口を開けて待っていて、我々の心胆を必ずや寒からしめるであろう。我々が迷信の徒だの無知蒙昧だのと嘲笑う蕃人は相当に利巧であり、台湾黒社会に根を下ろすロマン共もまた一筋縄ではいかない連中である。総督府の役人は無能、営林署の役人は怠惰、軍隊はウソツキ横暴膀胱カ

一九三六年 屏東⑺ ー 龍涎香は阿片より高く売れる

裸の処女の肌に塗り込む 今日の屏東は篠突雨が降っていた。仕事らしい仕事もなく映画でも見ようと思ったが雨風が相当酷く断念した。台湾には「竹風蘭雨」と云う語があるが(※台湾北西部の新竹は風が強く、北東部の宜蘭は雨がよく降るという意味)、屏東や恒春も相当に風雨が強く台風の銀座であると称される。方便なく旅館に籠もり一日中書き物をしながら新聞を読んでいたが、屏東の話題は甘蔗糖業が殆どで、其の他市尹の動静や妻帯の日本人巡査と蕃女の醜聞、キ印が行方不明になった話が面白可笑しく書かれている

一九三六年 屏東⑹ ー 蕃人の頭目は権妻をマミーと呼ぶ

若松町の見本蕃屋に立ち寄る。先日の蕃人がいたのでコーヒの劣悪振りを抗議すると、奥から小供が泣きながらやって来て「ニホンノオジサン、オトーサンヲイジメナイデクダサイ」と喚き叫ぶ。全然泣き止む気配がないので十銭玉を渡すとケロリとして奥に帰っていった。見本蕃屋には自分以外の客は居らず件の蕃人と雑談していたのだが、流暢な日本語で今度は「処女の品評会」と題する猥談を語るのであった。自分は屏東に蕃人の娼妓はいるのかと聞いてみたら、皆台東花蓮宜蘭から来た土人ばかりで我々はしないと云う答えだ

一九三六年 屏東⑸ ー 台湾のゲロ不味い珈琲

屏東の旅館に戻り、写真や名刺等を整理する。ふと気になって蕃人に売りつけられたコーヒの袋を少し開けて飲んでみるが、殊の外不味い飲み物であった。曾て国性爺(鄭成功)の子孫が日本でカフェを開くも不味さの故に直ぐに閉鎖され、またコーヒは卵殻を混ぜて煮ると丸やかな滋味を得ると云うのだが、屏東のコーヒは煎方が酷く殆ど低劣なる代物で得体の知れぬ雑じり物多数あり、正に鹿の糞のごとし。そもそもアジアは茶業盛んの地であり、コーヒ等似合わないのである。俄か心で半端な物を作る位であれば茶業に専念すべ

一九三六年 屏東⑷ ー 恒春とガランビ

四重渓温泉にてお座敷遊び 今日から蕃地視察である。屏東には四重渓と云う名の名泉がある。行き方は潮州で下車し、そこから貸切自動車で三時間二十円位であるが、たまたま乗合自動車があったので三円程度で済んだ。 四重渓は日本帝国最南端の温泉であり、四季の景趣に富む為一名四時景とも称されている。先年高松宮殿下が御行啓し、現在は益々繁盛していると云う。明治初年に此の地にて日本帝国が残忍頑強な凶蕃を膺懲(ようちょう)し清国から賠償金を得たと云うが、実態は全くの逆で、マラリヤにて多くの兵士

一九三六年 屏東⑶ ー 客家部落の朝と売春宿の夜

客家部落の朝 二人して宋君宅に帰り、暫時睡眠する。朝五時にもかかわらず著しく暑く寝苦しい。周囲を散歩すると支那風の赤瓦の建物ばかりで、辺りは黒猫や黒犬がウロウロしていた。半時間歩いただけなのに玉のような汗がドッと出た。宋君の住む地区は客家ばかりで日本人蕃人は居ないと云う。客家とは清代に台湾に移り住んだ漢人即ちちゃんころを指し、日本語を解するのは其の内半数程度である。宋君も客家の一人である。田圃には台湾バナナがたわわに成っている。台湾バナナは汽車に乗り高雄港に運ばれ緑色の硬い

一九三六年 屏東⑵ ー ホモセックスで肛門を大怪我

悪賢いパイワン族 屏東市若松町の中に見本蕃屋なるものがあってここで蕃人と会う事が出来ると云うので見てみる事にした。南湾の蕃人には貴族と称する頭目と平民の二種があり、大武山岳に大小多数の蕃社がある。見本蕃屋に居る蕃人は自分を平民出身であると云い、農業は幼稚であるが工芸を好むので民藝数寄(すき)であれば着目すると好いと云い、傍らの蕃女が身に付ける瑠璃玉を見せびらかしてきた。蕃人は朗々たる日本語で身上話を語る。自分は今上天皇陛下がまだ東宮におわしました頃台糖を行啓せされた時に御下

一九三六年 屏東⑴ - 謎の美青年に会うべく屏東市を訪ねた親族の記録

南台湾のモダン小都市 南湾の屏東市は糖業と飛行連隊で名を馳せる人口四万の小都市である。高雄より東に僅か二十キロメートルに位置するが、途中下淡水渓という大河がある為自動車で行く事は出来ない。その為総督府は鳳山屏東の間に東洋第一の鉄橋を架け、鉄道を往来させている。屏東は元々阿猴と称し、土匪が跋扈し一日として安寧の生活を送り得ぬ蕃地であったが、総督府の威令に蕃人百族は皆帰順し、また台湾製糖株式会社が台南より本社を移し、また理蕃の為に飛行連隊が四十万坪の広大な飛行場を設けた事から、