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一九三六年 屏東⑹ ー 蕃人の頭目は権妻をマミーと呼ぶ

若松町の見本蕃屋に立ち寄る。先日の蕃人がいたのでコーヒの劣悪振りを抗議すると、奥から小供が泣きながらやって来て「ニホンノオジサン、オトーサンヲイジメナイデクダサイ」と喚き叫ぶ。全然泣き止む気配がないので十銭玉を渡すとケロリとして奥に帰っていった。見本蕃屋には自分以外の客は居らず件の蕃人と雑談していたのだが、流暢な日本語で今度は「処女の品評会」と題する猥談を語るのであった。自分は屏東に蕃人の娼妓はいるのかと聞いてみたら、皆台東花蓮宜蘭から来た土人ばかりで我々はしないと云う答えだった。蕃人は檳榔(びんろう)をクチャクチャ噛みながら、日本人は娘が成長するとすぐ妓楼に売り飛ばして博打で身を滅ぼすが我々は一切しないのだとけしからぬ事を抜かしたのだった。

暫くして今度は自分の故郷の話を始めた。自分の故郷は屏東より東四十キロ程離れたクチクチと云う小部落で狩猟や農業で生計を立てていたと云う。頭目は三十歳位の偉丈夫であるが親子程年齢の離れた年増の妾が居て、妾の名を呼ぶ時英語風に「マミー」と称しているのだと云う。部落に居た警察官が頭目に色々手引きした挙句西洋かぶれになったのだと云うが、元々頭目には其の素質があったのであろう。嘗て清国官吏は自分等に対して全くホッタラカシであったが、日本帝国の役人警察官はヤレ時間だヤレ何某だと一々喧しかったと云う。しかし部落に保健室が置かれ不潔な場所が減りマラリヤ疫病で死ぬ者はメキメキ減り、片仮名を読める者も増え、其の徳政を盛んに喧伝していた。近地の三地門(さんちもん)蕃地では蕃人視察の接待役を仰せつかって台北のウライ蕃地(※現在では温泉で有名である)に学べとばかりに栄えているが、自分も日本語を一生懸命勉強しここで日本人の接待役を志願したのだ、今現在自分は日本帝国御公認の蕃人であるのだと豪語していたが、実際はかくの如し。蕃人の習慣吹聴等は噴飯ものが多く仔細の検討に堪えぬ事が多いものである。

此の他蕃人より習俗事情について種々聴取した処、蕃人の祭は首取祭の他、夏祭秋祭、また蕃地で三年に一度挙行される祖霊祭(※パイワン族の人神盟約祭。五年に一度行われるが、当時は三年に一度だったようである)は長い竹槍で霊球を刺すと云う些かオリムピックの趣がある男祭である。自分は和歌祭や粉河祭の話をしたが蕃人は一切興味を示さなかった。屏東蕃人は壺と瑠璃玉を崇めると云う。壺には父壺・母壺・陰陽壺の三種があり、父壺には陰茎大蛇の模様(※パイワン族は百歩蛇という毒蛇を民族の守り神にしている)があり、母壺には乳輪の模様があり、陰陽壺には両方の模様がある。原来神功皇后征西の頃に作られた物と云うが、眉唾である。此の他東京の好事家が陰陰壺・陰陽陰壺なる秘壺を求めにワザワザ屏東まで来たと云うが、仮に事実であれば物好きの極みである。瑠璃玉は婚礼結納に用いると云い、優秀なる瑠璃玉を製造する名匠は初夜権を持つと云う。また此の後歌垣や初夜の楽しい話をしてやると云いながら丁度好い処で話を切り、続きを聞きたければ煙草だか檳榔だかを要求するのだった。仕方なく煙草一本を呉れてやると、蕃人は蕃語で祭囃子を謡いはじめるのだった。見本蕃屋を出て棋院に寄るが支那将棊ばかりでどっちが勝っているのかすら全く分からず、また両人ギラギラと打っていたのでもしかすると博打だったかも知れぬ。また夜に蕃人に教えて貰った土人妓女の居る妓楼に行こうとしたが其の地番に建つのは屏東警察署であった。

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