一九三六年 屏東⑸ ー 台湾のゲロ不味い珈琲
屏東の旅館に戻り、写真や名刺等を整理する。ふと気になって蕃人に売りつけられたコーヒの袋を少し開けて飲んでみるが、殊の外不味い飲み物であった。曾て国性爺(鄭成功)の子孫が日本でカフェを開くも不味さの故に直ぐに閉鎖され、またコーヒは卵殻を混ぜて煮ると丸やかな滋味を得ると云うのだが、屏東のコーヒは煎方が酷く殆ど低劣なる代物で得体の知れぬ雑じり物多数あり、正に鹿の糞のごとし。そもそもアジアは茶業盛んの地であり、コーヒ等似合わないのである。俄か心で半端な物を作る位であれば茶業に専念すべきであり、コーヒ等はブラジルの移民に任せておけばよいのである。
ところで茶と一口に言っても日本茶台湾茶朝鮮茶支那茶は大きく異なるものであり、宋君は満洲国皇帝御愛好の例の支那茶を勧めてきたが、こちらは黴臭く三口四口啜るがセイゼイであった。支那茶は碁石のように固める処も気に食わぬ、支那飲みも気に食わぬ。台湾茶にはウーロン茶と紅茶があり、ウーロン茶が優勢である。ウーロン茶は欧州では茶のシャンペンと呼ばれるが(※香檳烏龍茶の香檳はシャンペンという意味である)、内地の人口に膾炙するのは紅茶の方である。
屏東駅前の媽祖廟の近所に一軒の瀟洒な喫茶店があり、「黒き屏東のコーヒ 白き屏東の砂糖 何れも滋味なり」の文句が壁に飾られていたが、自分はドコガジャと思う。暫くして宋君がやって来て、薄味のコーヒを頼んでいた。自分は牡丹蕃地や恒春の事情について話す。宋君の口から出たのは、内地でドテライ事件が起こった、和歌山の瀆職騒動や二二六に次ぐ事件が起こったと云うのだった。あらましを聞くと、宋君はニヤリと笑って、東京品川で情夫の浮気に腹を立て扼殺した末男の急所を切り取った妖婦が逮捕されたと云うものであった(※阿部定事件のこと)。前代未聞のグロ変態事件であるが、宋君は蕃族の出草(馘首)と大差ないと平然と云う。宋君によると、台湾の蕃族には首ではなく男の急所を切る部族も居たそうで、支那大陸には長い間宦官の習慣があった為怪我の処置に慣れているが、蕃族は切り取る事のみが目的である故、運良く暫く生きる事もあるが全て出血多量で死亡するとの事。また嘗ての台湾は海禁が布かれ女子の渡航が禁止されていた為男が圧倒に多く、鶏姦は当たり前であったと云う。鶏姦する者は対岸の福建から来た者に多く、急所を切る者は山辺に多い。此の悪習は劉銘伝氏が台湾を経営する頃に一旦途絶したが、日本帝国の台湾経営が始まり、今度は九州出身の兵士が屏東中学校に通う紅顔の台湾少年を惑わせているのだと云う(※1936年当時屏東中学校はなかったので、この記録は後日になって書き足した内容であると推測)。中には軍人を手玉に取る悪辣な不良少年もいて、巻き上げた小遣い銭を貯め内地に渡航した者も居ると云う。事業や学業に成功した者も居るが、中には大阪釜ヶ崎界隈で男娼置屋にヤツする者も居て、また彼の姉は飛田に居ると云うのだから、「姉は吉原弟は芳町、同じ勤めの裏表」と同じく真遺憾に堪えざるものである。ところで日本の兵士が少女を姦淫した例は聞かないが、童女趣味の兵士だって相当多い筈だから、単に軍法会議で相当厳しく罰せられる為に自制しているのか、若しくは事件を闇に葬っているのかは不明である。そう云えば先般屏東の料理屋に少女が出入りするのを見たが、宋君に訊くと此の子等はおちょぼ等ではなく単に踊りの稽古に通っているのだと云う事である。宋君は和歌山に居た頃から女色男色の此の手の話題に明るく、南方熊楠翁の「歩く和漢三才図会」に比し、宋君を「歩く金瓶梅」と例えた人士が居たが、確かに彼のエロ博覧強記振りには何時も頷かされてしまうのだった。(続く)
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