【映画所感】 さかなのこ ※ネタバレ注意
昨年9月にロードショーのこの映画。公開当初に鑑賞済みで、自分の感想なりレビューなりを文章にしてみようと何度も試みながら、ズルズルズル…。
悶々としているうちにとうとう年が明けてしまった。
呆れ果てるほどの“先送り体質”。
自分で自分が嫌になる。
子どもの頃から変わらない。
宿題にとりかかるまでが果てしなく遠い。
テレビや漫画におやつタイム。やっとの思いで教科書を広げるも、ゴロンと横になりたい衝動には抗えない。
突然、プラモデルが作りたくなったりもする。
それでも小学生の頃はまだ良かった。問題は思春期真っ只中の受験勉強だ。
共働きで“超”がつくほどの放任主義の両親のもと、深夜ラジオを聴きながら、勉強しているフリをただしていただけ。
ネットも携帯電話もない時代。テレビとラジオと活字を拠り所に、サブカルの沼でひたすら足掻いていたように思う。
勉強に対する集中力が欠如している上に、注意力も散漫。将来を見据えることをせずに、目先の快楽に走る。
大学受験に失敗するのは、誰の目にも明らかだったし、自分が一番わかっていた。でも、最後まで生活を改善することはできなかった。
いまでもこのときの挫折経験を大いに引きずっている。
本作『さかなのこ』は、自分とは真逆の“集中力のバケモノ”、さかなクンの自伝的映画。
単行本『さかなクンの一魚一会 ~まいにち夢中な人生!~』をベースに、主人公のさかなクンを、怪優のん(ex.能年玲奈)がジェンダーの枠を飛び越えて演ずる、いささかトリッキーな作品だ。
生涯をかけて探求するテーマ=“水棲生物”に出会ってからのさかなクン(劇中ではミー坊)の暴走が心地よい。
同時に、社会との馴染めなさ加減や、孤立感からくる虚しさに心が揺さぶられる。
「発達障害のグレーゾーンにいる」と最近自覚した身からすれば、おさかな博士になることを有言実行してみせたミー坊は、本当に愛すべき天才といえる。
孤高の存在は、いついかなる時もブレることなく、魚たちと真面目に向き合い、その知られざる生態を世間に発信しつづけてきた。
あまりにも正直すぎる魚たちとの接しかたは、しばしば世間との乖離を生み、欺瞞に満ちた社会のルールからは逸脱していく。
しかし、嘘偽りのないミー坊のことばは、やがて関わりを持った人たちの胸に深く沁み入る。
そこに“奇人”のレッテルは存在しない。
『さかなのこ』の見どころは、ミー坊の成功譚だけではない。さかなクン本人が自ら演じた、通称ギョギョおじさんの末路にも注目しなければならない。
「光あるところに影がある…」
アニメ『サスケ』(1968)のOPテーマのナレーションがそのまま当てはまる。
ひと握りの成功者の影で、人知れず世間から退場していく名もなき者たち。さかなクン自身がキャスティングされているところが、ギョギョおじさんの悲壮感をさらに際立たせていた。
沖田修一監督の見事な“捌(さば)き”。
そして、ミー坊の幼馴染のヒヨ(柳楽優弥)からは、勉学の大切さをあらためて教えてもらった。
高校時代、“狂犬”とまであだ名された不良のヒヨは、自分の将来のビジョンを明確に捉え、ある時期から猛烈に受験勉強を開始する。
やがて志望大学に合格したヒヨは、卒業後に大手テレビ局に入社。どんどんリアルを充実させていく。
ヒヨの依頼で出演したテレビ番組がきっかけで、ミー坊は水を得た魚のように活き活きと社会を泳ぎだす。
生きづらさを感じていたミー坊の姿は、もうどこにもない。
冒頭の勝手な自分語りで、自身の受験失敗談を書かせてもらった。
そう、ヒヨの考えかた、想像力が自分に少しでもあれば、誰かを救えるような立場になれたかもしれない。
少なくとも、誰も住まなくなった実家を5年以上も放置しているような、“先送りの権化”になど、なってはいなかっただろう。
成長過程のベストなタイミングで、もっと勉強しておくべきだった。
たとえ、脳の処理速度に多少の問題があったとしても…。
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