罪悪と恥と宗教と恋愛
僕は罪悪感がとても強い。地獄なんか信じてもいないのに、少し倫理的に悪いことをすると「地獄に堕ちるかもしれない」と真剣に悩んでいる時期があった。昔からそうだったから、今社会に奉仕できていないなどは関係なく、体質と生育環境の気がする。やたらと地獄が怖かった。人に父親の話をすると「それは自己肯定感が低くなっても仕方がない」と言われたので、発達障害について親に叱られすぎたのが原因なのかもしれない。
自分で詩を書くと、罪のモチーフがやたらと多かった。4年前に書いた短歌。
2020/12/01 23:20 人を刺したことはないが罪の雨数え切れないほど息をした
呼吸をするだけで罪悪感を感じていたのかもしれない。存在が悪という感覚があった。
「恥」の感覚も異様に強く、人前で話すことが物凄く苦手だし、醜形恐怖のきらいもある。
瞑想をしていると「ごめんなさい」という思考が止まらなくなった。数時間もずっと止まらなくて、無意識に罪悪感が根深くあったのだと思い知らされた。「罪悪エネルギー」が無意識に存在していると、何がよくないのか。
一つ目は、他人にコントロールされやすくなると思う。元々自責の念が強いので、他責思考であるモラハラ的人間に利用されやすくなる。あとは、宗教などにハマりやすくもあると思う。「あなたには原罪があります、イエス様がそれを贖ってくれました」「あなたの煩悩は凄まじいけれど阿弥陀仏が全て許してくれます」などの言説にハマりやすい気がする。自分のことを宗教的な人間だと思っていたけれど、自己否定感、罪悪感が強いからだと思う。
SMという現象はこの辺りから説明できるような気がする。男がサドで女がマゾの場合が多いと思うが、あれは「罪と罰」の演劇であると思う。サディストの心性はよく分からないが、自罰的な傾向のある人がマゾヒストになることは、実際に現象として多く見てきた。メンタルに問題を抱えている女性が「殴られるのが好き」「首を絞められるのが好き」などとツイートしているのをよく見た。
「自己責任」といって、他者に罪悪感を植え付けるのもコントロールの一種であると思う。社会的な強者が弱者に「自己責任」と吐き捨てるのをよく見るが、この言葉によって「罪」が全てその人に覆いかぶさってしまい、社会の悪が見えなくなる。
二つ目は「恥」の感覚が強くなりすぎて、生きづらくなることだと思う。太宰治のペンネームは「堕罪」から来てるっぽいが、彼の代表作の「人間失格」は「恥の多い生涯を送ってきました」と始まる。醜形恐怖の人間が物凄く増えているが、家庭環境の悪い人に多い。これは男性も女性も変わらないと思う。幼い頃に否定された経験から、罪と恥の感覚が強く、「顔」という生々しいものを他者のまなざしに晒すことが耐えられない。顔を「恥部」と感じてしまう。僕も醜形恐怖の部分があるので多少分かるが、かなり辛い。が、根本は「顔」にあるのではなく、無意識に現存している「罪悪」の意識であると思う。
「恥ってなんだろう?」とずっと考えていたが、恥とは「悪の自覚」であると思う。罪悪感が根底にある人は、常に悪の自覚があり、それゆえ他人のまなざしが「裁き」に思えて怖くなる。常にジャッジされているという感覚があるので人前に出られなくなる。悪と醜さは通底している。
「救われたい」とよく言っていたし、よく人が言っているのを聞いたが、「自分の存在は罪である」という感覚があるのだと思う。神は死んだ。そこで異性に救いを求めるのだが、そういった異性は往々にして「支配者」であることが多い。搾取-被搾取のカルト宗教のような関係になってしまう。
「神は妄想である」という本に、地獄の脅しによってPTSDになった女性の例が出ていた。宗教や虐待の本質は似ていて、罪悪によって他者をコントロールすることなのかもしれない。
なぜ宗教は、自然な本性に逆らうようにあなたに仕向けるのか?それはただ、あなたに罪悪感を植え付けるためだ。「罪悪感」という言葉を繰り返しておこう。この目的のために彼らは、あなたを破壊し、搾取し、鋳型に嵌め。屈辱を与え、自分自身を軽蔑するように仕向ける。ひとたび罪悪感がつくられて、「わたしは悪い人間だ、罪人だ」とあなたが感じられるようになれば、彼らは目的を達することができる。あなたを救える者は誰かいないだろうか?こうして救い主が必要とされるわけだ。だがその前に、まずは病気をつくりださねばならない。
さっき太宰治の名前を出したが、日本文化を研究している竹内という人は彼を「やさしい」と形容していた。僕は違和感があった。太宰は罪の意識から、他人の眼を気にして振る舞っていただけのように思う。三島由紀夫の自己愛とマゾヒズムにも同じ根っこがありそうだとも感じる。
仏教にも「懴悔」という概念があるが、禅における懴悔は「悟ること」だとも言われる。一切の過去が脱落するので、罪悪感がなくなるのだと解釈している。
「罪悪感」の問題を解決するには、やはり僕は「見つめる」しかないように思う。瞑想によって見つめるまで、自分がここまで深く罪悪感を持っていることにすら気づかなかった。他人に救いを求めるのではなく、自己を見つめるのが大切なように思う。
だまされる人よりも、だます人のほうが、数十倍くるしいさ。地獄に落ちるのだからね。
太宰治
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