私は必ず死ぬ 

 以前の記事でも少し触れたが、ラリー・ローゼンバーグの「死の光に照らされて: 自由に生きるための仏教の智慧」という本が10月の初頭に出たので購入して読んだ。
 マインドフルネスブームが収束したのか、最近はあまり瞑想についての本が出ないから楽しみにしていた。来月にもマインドフルネス認知療法に携わっている方の「マインドフルネスの探究: 身体化された認知から内なる目覚めへ」という、仏教から一歩引いた目線で、マインドフルネスにのみ焦点を当てて悟りを語るっぽい本が出るので楽しみだ。

 仏教には「死随念」という死を念ずる瞑想がある。古代インドでは森に死体が転がっていたらしいので、その死体を見ながら瞑想していたらしいが、現代日本でそれを実行するのは難しいので、イメージや言葉によって瞑想する方法が書かれていた。老いや病についても書かれている。 
 印象に残った部分を引用する。

 パーリ語にアヌサヤ(随眠)という言葉がある。万人にある潜在的傾向であり、死の恐怖もそのひとつだ。それは意識のどこかに潜み気力を奪う。最初は小さくても明確な怖れに成長し、無視できない影響力を持つようになる。それは人生を陰らせる慢性的な不安なのだ。
 アヌサヤは、私たちの視覚や聴覚からつねにエネルギーを補給している。知人の死を耳にする、路上で動物の死骸を目にする、友人の重病のうわさを聞いたり、長く離れていた友人との再会で相手の老いを痛感するなどの体験によってだ。

 潜在意識に死の恐怖があり、その恐怖が気力を奪うという説明は物凄く納得がいった。フロイト的に言えば「抑圧されたものは回帰する」となるだろう。「死」を見ないように抑圧(否認)していても、その抑圧された恐怖は必ず「悪さ」をする。

 実際にこの死随念をやってみると、虚無感や恐怖感が強く襲ってきた。歯磨き粉のチューブから恐怖感を練りだしているような感覚があった。恐怖感が襲ってきて、それらに意識の光を当てていると、消えていった。これで「抑圧していた死の恐怖」が出てきたのかは分からないが、リラックス状態になり、今生きていることの尊さを実感した。

 古東哲明のハイデガーの本に、ハイデガーは若い頃に心臓発作で死にかけて、その時に死の瞑想をしていたと書いてあったのだが、ネットで調べてもソースが出てこない。カトリック教会のイグナチオ・デ・ロヨラという人の作った祈りの修練をしていたという論文は出てきたので、そこに死の瞑想が入っているのかもしれない。
 「存在と時間」という書物には「死に先駆することで本来性を回復することができる」というようなことが書かれている。死を想うことでハイデガーのいう「存在忘却」が解除されるのは事実であると思う。
 死を念じていると、今生きていることが神秘に思えてくる。不思議と感謝の念が湧いてくる。「メメント・モリ」なんて誰でも知っている言葉だが、「本当に」知っている人はいない。

今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん

大田南畝

 これが辞世の句らしい。

 人は死を否認しながら生きている。キューブラー・ロスの有名な「否認」→「怒り」→「取引」→「抑うつ」→「受容」という死の5段階のプロセスがあるが、癌に冒されなくても、日常で否認している。死の瞑想はこの否認を解除して「怒り」や「抑うつ」といった「アヌサヤ」を浮上させるものといえるかもしれない。

 神が死んだ世界で何が「霊性」なのかと考えると、「存在」と「死」であるかもしれない。この二つは全く「分からない」上に「確実」だからだ。死を想うことで、よく生きられる。ソクラテスは哲学は死の修練だと言っているが、死の修練としては死随念の方が適しているように思う。ただ、この本にも書いていたが、鬱状態にある人や集中力の育っていない人は危険かもしれないので、指導者の元でやったほうが良い。

 瞑想という形でなくても、死を想いだすことは大切だ。「無常」とか「死」とか、知っているけど誰も知らない。「生物」として、無常や死を認識するように進化すれば、淘汰されるのだと思う。だからすぐに無常や死を忘れてしまう。死を忘れると全てが「当たり前」になってしまって、世界から新鮮さや驚きがなくなってしまう。
 もちろん僕も死にたくないんだけれど、死ぬときに後悔しないように死を忘れないようにしたい。

よく死ぬことを心配する奴がある――「いや、心配するな。――死ねる」

澤木興道

死の自覚が生への愛だ

田中美知太郎

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げんにび
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