誰に向かって作品を創るのか?
「自分のために創作をする」という人もいれば「他人のために創作をする」という人もいる。体質なのだと思う。自分の表現欲求やフェティシズムを充たしたい人であれば、自分のために創作をする。承認欲求に創作を従属させている人や、共感が欲しいという人は自己/他者のあわいに存在している。他人のために創作をするという人は、自己の作品で他人を喜ばせたいという利他の気持ちで作品を創っている。
ここに書いている文章は、思考の整理のため、あとは自己の思考が他人のためになればいいなと思って書いている。あとやっぱり人から評価されるのは嬉しい。ただ、純粋な「創作」の場合は、感覚が違うと感じた。僕の場合は詩作をしているが「誰のため」に詩を書いているのか?
少し遠回りになるけど、ソクラテスに「知行合一」という教説がある。「人は本当に良いことを知れば、良いことをする。なぜなら悪いことを望む人などいないから」という説なのだけれど、例えば「飲酒」が自己の身体にも他者にも「悪」だという「知」を得れば、断酒という「善」をする。犯罪者は、殺人や盗みが「善」だと勘違いしているから罪を犯すのであって、それを「悪」だという知識を与えれば、犯罪をやめさせることができる。
「善」を知れば人間は「善」を行うというのは「理論的」には成り立つが、実際には人間には「情念」や「意志」というものが存在するので、現実には成り立たない。いくら断酒の善を説かれようと、いくら犯罪の悪を説かれようと、情念の前には知識は歯が立たない。「知行合一」というのは哲学者の頭の中でしか成立しない。
一方で、創作においては「知行合一」というのは成り立つのではないかと思った。カントの「判断力批判」においては「主観的普遍」ということが説かれる。
「私の判断」「私の趣味」が「普遍性を要求」する。要は「俺が美しいと思うものは他人も美しいと思うはずだ」と人間は考えている。
創作というのは「私の趣味」で行うものだ。「自分が良いと思うもの」を創る。そして人間は普通「自分が良いと思うものは普遍的に良いものだろう」ということを期待する。(実際にそうとは限らない)
僕が詩作をする時には「良い詩を書きたい」としか思っていない。良い詩というのは「私の趣味=普遍的な美」である詩のことで、ここで「普遍性」という言葉を「イデア」という言葉に置き換えると「美のイデアに基づく詩を書きたい」となる。
創作というのは「悪」が許される。殺人も放火も許される。「私が良いと思うもの」を「行うことができる」。というか、私が良いと思うことしか行うことができない。「これは趣味が悪い」という創作を人は普通やらない。綺麗な写実画が好きな人が、意味不明な抽象画を描いたりはしない。「好きなことを行う」ということしかできない。「創作」という全き自由、全き真空の中では、自己の「趣味」しか拠り所にするものがない。
実生活では「知行合一」は成り立たないが、創作ではむしろ「知行合一」しか成り立たない。知=趣味=行為=創作。そしてその「知」というのは主観的な趣味でありながら、普遍性を「要求」するものだ。この「主観的イデア」というキメラに奉仕しなければならない。せざるをえない。
僕は素朴に「良い詩が書きたい」という欲望があるが、それは自分のためでも他者のためでもなく「主観的イデア」という化け物のためなのだと思う。詩を書いて評価されれば、それは勿論嬉しい。自分の詩で他人に良い影響があれば良いという気持ちもある。だから「自分のため」「人のため」というのは僕の心に存在しているのだが、創作の本質的欲望である「良いものを創りたい」という欲望を満たすには第三項である「主観的イデア」に奉仕しなければならない。
詩作する際には「知行合一」をせざるをえない以上「俺の趣味=普遍性」という矛盾した行いをしなければならない。