やさしいひと 余りもの

 よく幼い頃から「優しい」と言われてきた。お人好しだと思う。でも内心では「良い人と思われたいからやっているだけ」とも思っていた。本当の善意なんか今まで一度もなかったかもしれない。だから善導の「三業を起すといえども名づけて雑毒の善とし、また虚仮の行と名づく」この雑毒の善という言葉が凄く腑に落ちた。

 僕の周りはやさしいひとがたくさんいる。やさしすぎて、誰にでも体を許したり、毎日かかってくる電話を断れずにノイローゼになったりしている。多分「やさしい」には2種類ある。「嫌われるのが怖い」やさしいと「相手のためを思って」のやさしいがある。もちろんこんなにキッパリ分けられるわけではないと思うけれど、前者の意識がとても強い人が周りにいる。僕もそうだ。
 1回通話しただけで「あなたのこと大好き!付き合おう!結婚したい!」と言ってくる人が時々いる。関わっていくと、必ずモラルハラスメントをされる。別の場所で再会したら、また必ずモラルハラスメントをされる。元カレにモラルハラスメントをしていたという過去を話していたので「気質」なのだと思う。癇癪持ちの人ばかりだった。恋人にそれを言うと「悪い意味でなんでも許しそうなオーラが出ている」と言われた。確かにどんな暴言を吐かれても、結局許してしまう。NOと言えない。人に頼み事をしたりNOを言うのが本当に苦手だ。

 愛着障害の本を読むと、この手の人は自己肯定感が低いらしい。拒絶されるのを極度に恐れるから、許してしまうしNOと言えない。なにをされてもへらへらしている。結局自分が可愛いだけだ。「自信のない自分」を守りたいから、「やさしい」という戦略をとる。

 あまりにも夥しく蜜を集めた蜜蜂のように。わたしは手を必要とする、わたしの知恵にむかってさしのべられるあまたの手を。
 贈りたい。分け与えたい。世の知者たちが再びおのれの無知に、貧者たちがふたたびおのれの豊かさに、気づいてよろこぶに至るまで。

ツァラトゥストラかく語りき
フリードリヒ・ニーチェ

 有り余る充溢を贈り与えるというのは健全なように思う。「飢餓状態」である自分から奪われたくなくて「媚びる」のではなく、「満腹状態」だから、自分の持っている食べ物を与える。

 「余りもの」が優しさなのかもしれない。「これ作りすぎちゃったんで…」が愛なのかもしれない。自分に持っていないものを他人にあげることはできない。

自分を愛さなきゃひとも愛せない

Don't say "lazy"

 

勉強したいのでお願いします