哲学と美しさ 政治
「蜘蛛女のキス」という小説は面白い設定で、2人いる登場人物の1人が自分の見た映画の思い出を監獄の中で語っていくという小説なのだが、その中の映画に「異様に美しいナチスのプロパガンダ映画」というのがある。僕は映画に疎いのだけれど、ディズニーの反ナチズムの動画は見たことがある。ドナルドダックがナチスにこき使われるという風刺映像だった。こうやって美や娯楽で思想を吹き込むのは効果的だろうなと思う。「啓蒙思想2.0」というとても良い本があるのだが、著者は人間は理性ではなく感情で動くものだから政治は終わっていくと繰り返し主張している。有名な比喩があるが、感情というのは象で、理性というのは象使いだ。美しいものには魅かれる。
最近はニーチェとバタイユのテキストばっかり読んでいたのだが、本当に文章が綺麗だ。ニーチェは自己のアフォリズムの中で詩的なリズムの「強制性」を説いているぐらいだから、詩的リズムの重要性を知っていたのだと思う。「論理」ではなく「美しさ」の方が説得力があるんじゃないか。僕は哲学という学問は「論証によって誰にでも分かるように世界を説明するもの」だと思っているが、論証の文体が美しい方が人は説得されやすいように思う。ニーチェの人気の秘訣は、ニーチェが本質的に詩人であるところにあるように思う。文章が美しすぎる。
バタイユも文章が綺麗だ。美文を書く哲学者といえば、プラトン、ショーペンハウアー、キルケゴール、ニーチェ、バタイユ、サルトル、ドゥルーズなどが思いつく。「文章の美しさ」って「哲学の価値」そのものに関わる気がする。アリストテレスもプラトンのような「対話篇」をたくさん書いていたのだが、散逸して1つも残っていないらしい。二コマコス倫理学や形而上学を読んでも、アリストテレスは「文学性」が全くないと感じるので、対話篇もプラトンの美しい対話篇が後世に残り、アリストテレスの無味乾燥な対話篇は消え去ってしまったんじゃないだろうか。
デカルトやロックやヒュームは「普通」という感じだが、カントは結構文章が汚く、ヘーゲルは最低の文章をしている。今はショーペンハウアーの哲学なんかほぼ忘れられているが、500年後には美しいショーペンハウアーの文章の方が残っているかもしれない。
「哲学書の文章の美しさ」についてあまり触れられることがないように思う。ドゥルーズって別に特に凄いことを言っているわけではないが、文章が死ぬほど格好いい。アンチ・オイディプスだけでなく、差異と反復みたいな結構ゴリゴリの哲学書でも、信じられないぐらい文章が格好いい。だから思想をファッションにする人に好かれやすいのだと思う。MCバトルを見れば分かるが「格好いい」というのは「説得力」になる。
ウィトゲンシュタインの時々ピリっとした警句が格好いいし、何より生き様が格好いい。その辺の「かっこよさ」が哲学に加味されているような気がする。画家はそういうのが結構露骨で、ゴッホなんかは生き様が評価されているらしいが、芸術は当人の生き様が作品の評価に繋がるのは分かりやすい。哲学の「格好よさ」は「論理的論証」を重んじる「哲学」において「ノイズ」なのか「本質」なのかは分からない。ノイズだと感じる人は分析哲学をして、本質だと思う人は僕みたいにニーチェやバタイユを好むのだと思う。
バタイユは日記の断章を思想書に仕立て上げているのだが、その中で一番美しいと思ったものを引用したい。
執筆していると、テントウムシが私のランプの下を飛んで、私の手にとまりに来る。私はそれを捕まえて、一枚の紙の上に置く。かつて私は、この紙に一つの図式を、ある極限から別の極限へ、つまり普遍性から個別性へ向かうさまざまな形態を、ヘーゲルに従って表した図式を書き写していた。テントウムシは、精神の欄で動きを止めた。それは、普遍精神から、人民、国家、世界史を通過して感性的意識へ向かう欄だ。テントウムシは、まごついていたがふたたび歩き始めて、生の欄、つまり今度は自分の領域に迷い込んだ。それからテントウムシは、中央の欄で「不幸な意識」にたどり着いたが、それはその名前と関係があるだけであった。
ジョルジュ・バタイユ
ただの日記だから思想もクソもないんだけれど、凄く綺麗だ。
永井均の「マンガは哲学する」という本で、たしか吉田戦車を「哲学者でもこんなにメタフィジカルなセンスがある人は日本にはいない、ウィトゲンシュタインレベル」と書いていた気がするが、哲学者は漫画家や詩人にもいるんじゃないだろうか。
谷川俊太郎は哲学性の高い詩人だと思うけれど、少し引用する。「質問集」という質問を詩にしたもの。
一脚の椅子があって、あなたはそれに腰をおろしている。椅子をつくった人間はどこへ行ってしまったのですか?そしてあなたは、どこにいるのですか?
野に咲いている名も知らぬ一茎の小さな花、それが問いであると同時に答であるとき、あなたはいったい何ですか?というような質問に私は答えなければならないのでしょうか?
もっと良い哲学っぽい詩もあると思うけれど、ぱっと思いつくのがこのシリーズだった。
渇き
水に渇いているだけではないのです
思想に渇いているのです
思想に渇いているだけではないのです
愛に渇いているのです
愛に渇いているだけではないのです
神に渇いているのです
神に渇いているだけではないのです
何に渇いているか分からないのです
〈水ヲ下サイ 水ヲ……〉
あの日からずっと渇き続けているのです
シモーヌ・ヴェイユは優れた哲学は詩にならなければならないと言っているらしいが、そうなのかもしれない。「真・善・美」が一体のものであるならば、真である哲学がそのまま美になるのは当然なのかもしれない。
ただ、苺ましまろに「かわいいは正義」という名台詞があるが、これは危険な思想だと思う。昔にTwitterで「あのちゃんには暴力性を感じる、顔が悪くてあの性格だったら誰にも相手にされていない」というツイートを見たが、「美しさ」が「正しさ」になると、ナチスのように政治利用される可能性もある。テレビでテイラー・スウィフトの政治的発言が若者の投票を左右すると言っていたが、そういうのもかなり危険だと思う。
美は美で良いのは当たり前なんだけれど、キチンと考えないと危ない気がする。「美しいから正しい」というのは危険な発想で「正しいから美しい」というのは健全な気がする
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