池田晶子論 哲学と仏教とスピリチュアル

 池田晶子は大昔に「無敵のソクラテス」「死とは何か」「君自身に還れ 知と信を巡る対話」「残酷人生論」を読んだことがある。不思議なことに「今読むべき本」って閃いてくるもんで「残酷人生論」を本棚から引っ張り出して読み返してみた。
 レッテルを貼るのはあんまりよくないが、彼女は「悟っている人」だった。悟りを簡潔に定義すると「頭の中の思考(言葉)のことを信じていない人」ということになる。彼女はとにかく「自分で考える」ということに徹底しているが、その懐疑の果てに「思考」まで信じなくなったのか、それとも特殊な体質なのか、何かが切っ掛けで「気づいた」のか分からないが、「言葉=観念」というものをそもそも信じていない。

 たとえば私はよく感じるのだが、私がいま考えているこの考え、これは一体誰のものかと。普通に人は、自分が考えている考えは自分のものだと思っている。しかし、或る考えが誰かのものであるとはどういうことなのか。(中略)「考え」は誰のものでもない。「考え」はそれ自体が普遍である。「考え」においてこそ人は、ちっぽけな自我を消失し、考える精神それ自身と化す。
 宇宙とは、自己認識する魂である。

この否応なさを、デカルトという人はコギトの確実さというふうに言ったけれども、彼はしかし、この問いの不思議さを更に問い続けることをしなかった。

なぜなら「私」は質だからだ。(中略)質的「私」の扱いに慣れているのは、哲学よりもむしろ宗教、というより教説を無視して自身に向き合う禅とか神秘主義のほうなのだ。

いちばんわかりやすい例の「貨幣」ですけれども、あれら絵のついた紙切れやちっぽけな金属片が、なんだってまた大事なものなのでしょうか。それは、あなたがあれらを大事なものだと「思う」から大事なものとなるのであって、そうでなければあんなものは、ただの絵のついた紙切れかちっぽけな金属片ではないですか。貨幣は貨幣と「思われて」、貨幣になるほかないのだから、貨幣よりも貨幣という「考え」の方が先である。つまり、現実を現実たらしめているのは、あくまでも観念なのである。

 ところで、社会の存在といって、社会なんてものがいったいどこに存在するのだろうか。私はそんなものを見たことがない、触ったこともない。(中略)もっと言うと、国家なんてものも、存在しない。存在しているのは、自分が国家に属すると「思って」いる人間たちだけなのだ。

 人を殺してはいけない理由は、決まっている。それが規則だからである。

「ここ」とはどこか
「ここ」と言うとき、そこはもうここではない
「ここ」なんて、どこにもない
だから死はない、したがって生もない

 残酷人生論から、特に悟りっぽい部分を引用した。仏教やスピリチュアルに興味があって僕のブログを読んでいる人から見れば、いつも読んでいるスピリチュアルの文章とそっくりなのが分かるだろう。
 浄土真宗僧侶で哲学者である大峯顕氏との対談では「年々考え方が仏教的になってきている」と語っていた。
 僕の読む感じだと、この人はソクラテスと同じく、懐疑による解脱を果たしている。だって「懐疑」を深めれば「俺の考え」まで疑わなきゃいけないに決まっている。どこまでも深い懐疑というのは「俺の考え」を疑うことであって、そこが「打ち止め」になる。内山老師は「思いは脳の分泌物」だという悟りを語っていたが、その通りだ。

 それにしても池田氏の言語化能力とスピード感のある文体は凄まじく、そりゃ人気だと思った。

 哲学というのは「そもそも論」だが、そもそもを究極まで推し進めると「俺の考えってそもそもなんなんだ」に行きつく。そこまで行ったのが釈迦である。釈迦の凄い所は「俺の考えを疑う方法」を「マインドフルネス」という誰にでもできる方法にした所だ。普通は「俺の考えは俺の考えだろうか?」なんて疑うことはできない。「全てはフィクションである」と嘯く人は掃いて捨てる程見てきたが、「全てはフィクションであるという俺の考えもフィクションである」まで徹底している人は仏教徒や池田晶子以外に見たことがない。

 池田晶子は独力で「果て」まで行っていて、確かに凄いのだけれど、「全ては観念ですよ」という所から始めるなら、仏教やクリシュナムルティやエックハルト・トールで良いことになる。
 「果て」はそうなのだけれど、僕は「近代哲学」の内部から近代の原理を把握したいという欲求があるので、まだ哲学書を読んで考えたい。もちろん仏教や池田晶子からすれば「近代」も「社会」もただの言葉=観念に過ぎないのだけれど。

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げんにび
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