小説や詩の賞 インターネットと創作
友人は絵画の賞を何個も取っているんだけれど、もうそういう類の活動は一切していない。「賞ってただの名前じゃん」と言っていた。
永井均氏の「倫理とは何か」という本が大好きなのだけれど、こういう文章があった。
何気ない文章で書かれていて、本筋ではない場所で語られていたので余計に印象に残った。
僕も本当にそう思う。僕は世の中の人は哲学の話なんか、大学教授の権威のある文章しか信じないと思っていたのだけれど、僕が「本当のこと(だと思っていること)」を書くと、急にフォロワーが増えたので驚いた。本当のことを書くと、広まっていくんだと自信がついた。440フォロワーで、月4万PVというのは大手とは言えないと思うが「なんの権威もない障害者」の言葉をこれだけの人が読んでくれるというのは凄いことだと思う。
最近は詩作に熱中していて、詩作のアカウントは全くフォロワーも伸びないし「もしかして俺はゴミを書いているんじゃないか」と物凄く不安になることがある。本当に凄く不安になる。現代アートの批評家の人の本を読んだが、近代芸術というのは「神の死」から始まっているので「批評家」と「作家」というのは双生児だと書いてあった。「神からの距離」で作品の良しあしが測られていたが、原理的に「美醜」を決める基準がなくなったので、「批評家」という職業がどうしても必要になる。作家の不安を宥めるために。
noteのアルゴリズムで詩作をしている方のアカウントが流れてくるが、やはり雑誌に載るだとか、賞をとるだとかにこだわりのある人が多い。ヘーゲルの洞察した通り、近代というのは「承認」の時代である。「市民」が良し悪しの判定をする。権威がものをいう。
現代アートは今は批評家の地位が低くなって、もはや金のある人間が善悪や美醜を決めているらしいが、資本主義社会ならば当然そうなるだろうなと思う。
「自費出版」や「文学フリマ」という手もある。「物質になる」というのはかなりの不安を和らげられる。充足感も得られる。実際にnoteでもそういう方を見る。ただ、僕はネットの時代に自費出版というのはナンセンスなのではないかと思う。100万以上の投資をして、ほぼ赤字が確定している。ブログを運用している知人がいないので他人のことは知らないが、僕の場合、noteというサービスを使えば無料で全世界に発信できて、月に4万人に見て貰えた上で、時々投げ銭が貰える。
文学フリマは「ニッチな文学」をやりたい人のものだそうだが、そういうのもネットに投げればいいと思う。「それは、本当のことを隠すことはできないからさ」という一文の意味は本当に大きいと感じる。
僕は谷川俊太郎のファンなのだが、友人に「僕は美の普遍性を信じている。谷川俊太郎の作品は美しいから売れているし読者も多い」と言うと「でも売れたものが良いとは限らない」と言われた。確かにそうかもしれない。カントの「純粋な趣味判断は主観的普遍妥当性を要求する」という美学は深い。主観的なものに、普遍性を要求してしまう。「俺が好きだからみんな好きだろう」というのが美だ。
「俺が好きなものを創った。俺が好きなものは普遍的に良いはずだ」と考えてしまう。だから賞をとらないと不安になる。社会という普遍に承認されなければ、自分の「趣味」が「誤り」になってしまう。
僕はネットの時代に「賞」や「自費出版」や「文学フリマ」をする必要はないんじゃないかと思う。美しい花には蜜蜂が集まる。インターネットという原っぱに、「本当に美しい花」を置いておけば、自然と蜜蜂は集まると思う。美しい物を隠すことはできない。
堂々と、信じて、コツコツやっていけばいいんだと思う。成すとか成さないとか、賞をとるとかとらないとか、そういう部分に拘泥している時点で感受性が死んでいると感じてしまう。「本当のもの」を創ったらいい。たくさん読んでたくさん書いて「本当のもの」を創れば良い。売り込むという下心で作品を汚してはいけない。
「評価されるもの」ではなく「本当のもの」を創りたい。不安はあるけれど、本当の言葉が欲しい。