問いの哲学

 僕が好きな哲学者はニーチェ、バタイユ、ハイデガー、ウィトゲンシュタインである。他にもパスカルやデカルト、ヘーゲルなども好きだが、最近この4人に落ち着いてきた。

 ニーチェは大人気の哲学者であるが、なぜそんなに重要なのかというと、一つの核心的な問いを発しているからだと思う。その問いとは「価値とは何か」である。おびただしい言説がこの問いのパラダイムから発生している。まず「人生は生きるに値するのか」という実存的な問い。noteを見る限り悲観的な人が多い。社会的なことでいうと「正義中毒」という言葉も生まれた。何が正しくて、何が悪いのか。一切がゆるされているならどう生きればいいのか。芸術に価値はあるのか。そして宗教の問題。「価値観」や「多様性」といった概念もニーチェに由来していると感じる。ニーチェが創造したのか、時代の空気を読んだのかは分からない。恐らく両方だろう。ニーチェ自身は「価値」を「大地の上で創造的に生きること」に置いたが、異論はたくさんあるだろう。価値の問題に決着が着くのかは分からない。戦争から個人の実存まで全てが問題になっている。

 ハイデガーは「存在者とは何か、なぜ無ではないのか」という問いを提出している。原理的に答えが欠落していて、答えようがない。僕の直観だけれど、近代哲学というのはこの神秘主義で一端終焉し、その後にまた新しい地平が生まれるんだと思う。ポストモダン哲学はニーチェとハイデガーから影響を受けているが、ドゥルーズの著作は意味不明だし、フーコーは歴史家だ。デリダが最近安価になってきたので読んでみたい。

 ウィトゲンシュタインは「言葉とは何か」である。言葉というのは人間存在の本質であると思うし、論理哲学論考で論理的な言語観、哲学探究で全く別の言語観を提出したのは凄い。ウィトゲンシュタインが「己の問い」になる人というのは少ないだろうが、僕は好きだな。言葉とは何かをずっと考えているのだけれど、未だによく分からない。未だによく分からないのにこうして言葉を使っている。それが不思議でならない。

 バタイユはテキストが難解なので精読できていないのだが、物凄く誠実な思想家だと感じた。「全て」を「問い」に投げ入れることによって、内的体験をする。禅の公案のようなものなのだろうか。結局世界のことなんか分かりっこないんだから、何も分からなくなる。そして奇妙なテキスト実践をすることになる。
 昔は「宗教の理論」や「エロティシズム」などの明晰な論文調の著作が好きだったのだが、最近は有罪者や内的体験といった詩的な著作のほうが好きだ。

 この4人に共通しているのは、何かしらの霊性に触れていることだ。ニーチェは永劫回帰の「体験」をしているし、ハイデガーは瞑想をして存在に驚愕しているし、ウィトゲンシュタインも同じく存在神秘に驚いているし、バタイユは神を愛憎しつつ、独自の無神学大全を書いている。

 価値とは何か 存在とは何か 言葉とは何か 問いとは何か

 世界はやはりニーチェの提出した価値の問いを巡って進行していると感じるが、他の問いも「そこから始まる」ものだと感じる。

 仏教の問いは「どうやって苦悩を減らすか」である。これは哲学的な問いというより、人生をよりよくする問いであると思う。そしてその問いの答えは観察瞑想をしながら、自己で「智慧」を見つけるしかない。
 しかし、ニーチェ的観点に立てば「なぜ苦悩には価値がないのか」とも言える。実際にニーチェは苦悩は悲劇的美に必須なものであると賞賛している。
 
 この4人を熟読しながら、文学や現代哲学、仏教や詩の勉強をしようと決めた。デカルトやフッサールの「絶対に疑えないものはあるか」とかも面白いと思うんだけれど、僕は退屈に感じてしまう。体質の気がする。

 最近知人に「食べるって不思議だよね、咀嚼して飲み込んで、勝手に消化されて、よく分からない」と言われた。「食べる」ということを問いにして生きている人も当然いると思う。ヴィーガンなどは最たる例だけれど、もともと食べるというのは殺すことであるから、人生の矛盾になる。

 問いを掴んでいる人が好きだな。大きい問いのほうが良い。答えはでなくてもいい。問いを持って生きることが重要だと僕は思う

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げんにび
勉強したいのでお願いします