何者かになりたい
現代の若者を苦しませている観念は「特別でありたい」という観念であると思う。どこからこの観念はやってきたのか。
狩猟採集民の最大値は概ね150人程度だという。人類の言語は「噂話」を発達させるためという説があるが、噂話で「顔見知り」になれる限界が150人らしい。現代の会社や学校などの集団にも当てはまり、最大で150人を超えるとすべての人を把握するのが難しくなる。
僕の学年は100人程度だったが、確かに全員顔を覚えていた。そしてその100人の中で「ユニークな個体」として認められていた。全く特別な個体だった。「Sくん」と呼ばれていたが、SくんはSくんでしかない。ここでは「自分は誰か」ということがはっきり分かる。
親族や共同体のネットワークでも同じだ。少人数の規模のグループに属すことで「自分は誰か」という問いに答えが与えられる。
共同体が壊れて、ネットワークが最大化しているのが問題だと思う。人間関係は「自己責任」の名のもとに希薄化され、結婚する人も少なくなり、誰も親の老後の面倒を見たくない。こういった極端な個人主義に加えて、「全世界」と繋がる「SNS」というサービスが誕生した。「絶対的な個」が「全世界」の中で「特別」にならねばならないという状況がある。「特別」になるには「容姿」「面白さ」「才能」など、他人と自分をうまく識別するような指標が必要になる。醜形恐怖というのは「特別になれない」という劣等感もあると思う。SNSで醜形恐怖が加速するとよく言われているが、SNSでチヤホヤされている特別なインスタグラマーを嫉視してしまう。
昭和の時代は男に生きる意味を聞くと「出世すること」と言われ、女性に聞くと「いい奥さんになること」と答えられたとどこかで読んだ。しかし今は大金持ちの社長も、そのお金や地位に満足できずにSNSで「特別」になろうとしている。お金配り社長や虎の社長などは好例だと思う。
「SNSをやると幸福度が下がる」というのは常識になってきたが、それはSNSというものが若者の幸福観、世界観にダイレクトに直結しているからだ。家族や友人との絆が薄れているから「自分が誰なのか分からない」。だから「SNSの中で特別になりたい」けれど「容姿も才能もないから劣等感を感じてしまう」。もしくは「容姿や才能が維持できないから苦しい」になる。
個人主義により、自己像が不安定になり、その自己像をSNSという不安定なサービスで安定させようとする、から不幸になる。安定した自己イメージは人間関係の中でしか育めないが、家族、恋愛、友人関係、が希薄になっているのでSNSという修羅の道を行くしかなくなる。
哲学は「汝自身を知れ」という神託から始まるが、誰もそんなものは分からない。無我だからだ。固定した自分というものは存在しない。
ソクラテス、イエス、孔子、釈迦、というのは「都市社会の成立」と共に誕生したと言われているが、全員「自分とは何か」という問いに答えようとしている。ソクラテスは「考える」という方法、イエスは「神の子になる」という方法、孔子は「道徳的に優れる」という方法、釈迦は「無我」という方法。この4つのパターンの方法が人間関係が希薄な社会での「自己像の不安」にとって効き目があるのだと思う。「ひたすらに有名になる」というのも一つの手だとは思うが、「世界一有名になる」と言っていたDJ社長はあんな感じになってしまった。険しい道のりであると思う。
少し前までは日本人の理想、神というものは「幸福な家庭」だったように思うが、現在は「SNSのフォロワーを増やしたい」に変わってきている気がする。結婚したい人は減っているが、ツイッターはどんどん荒れている。それは言い過ぎかもしれないが「幸福な家庭を持てば幸福」という幻想は明らかに壊れてきているし、その代わりに「特別でありたい」という願望が強くなっていると感じる。
僕自身はソクラテスの方法(哲学)と釈迦の方法(瞑想)をしているが、信仰でも道徳でもいいんじゃないかと思う。