見抜かれるのが怖い方へ 「裸の自分」になるには?
私は、子どもの頃から、人に見抜かれるのが怖いという気持ちがありました。どんなに取り繕っても、自分の中にある悪が見抜かれるのではないかと、いつも隠すことに懸命でした。
社会人になっても、それは変わりませんでした。人からどう思われるかばかりを気にしていました。軽薄で偽善的な自分が嫌いでした。
先日、ある経営者とのセッションで、リーダーシップをとるときに「覚悟」を大事にされているという話になりました。
そして、「赤野さんがリーダーシップで大事にされていることは何ですか?」と聞かれました。その目からは、「あなたはどれくらいの覚悟をもってコーチをしているのですか」という声が聞こえてきました。
以前の私でしたら、何とか取り繕おうとしたかもしれません。いかにコーチとして認めてもらうか、「この人なら大丈夫」という安心感を持ってもらえるかを気にして、見くびられないような答えを探したでしょう。
ところが、このときは違いました。
この質問を受けて、私はリーダーシップをとろうとしていないことに気づきました。ただ、私自身が常に大事にしていることは「裸でいる」ことだとお伝えしました。
人は、自分のことを取り繕おうとします。そんなとき、取り繕っていることを隠そうとしたり、ごまかそうとすると、心に膜が張ります。
今の私は、取り繕おうとしている状態のままでいます。変えようとはしません。「自分って、どこまで気が弱いのだろう」と笑いながら、自分を見ています。
まずは、自分に起こっていることを、ただそのまま受け取ること。そして、必要であれば、そのまま言葉にすること。これが「裸でいる」ということです。
経営者から「私は人を抜くのが得意です。赤野さんは見抜かれることが怖くないのですか?」とさらに聞かれました。
そのとき、見抜かれることは、まったく怖くないと思いました。「裸の私は残念なところも多いと思いますが、むしろ、見抜いて欲しい」とお伝えしました。
自分に自信があるわけではありません。残念なところも含めて、自分のことをもっと知りたいのです。
本当の自分を知るには、裸でいること。これは好きかどうかではありません。良いか悪いかでもありません。自分に嘘はつきたくない。そう生きるしかない自分がいます。
「そういう自分のあり方を、知ってもらいたいです。逆にどう思います?変態ですかね」とお伝えしましたが、経営者はちょっと引いたかもしれません。苦笑いされていました。
セッションが終わりに近づいたとき、経営者の言葉が変わったように感じました。とても素直で、愛に溢れていたのです。
「今、気持ちを受け取りやすかったです」とお伝えしたところ、「今は、1人の人として話していました」とおっしゃいました。
普段は、経営者として話している方が楽だそうです。1人の人として話すのは、拒絶されるリスクがあって、とても怖いそうです。
経営者として話をされているとき、その言葉は固く、人を寄せ付けないところがあります。また無難すぎて、突っ込みようがないのです。正しいことばかり言われると、こちらも身構えてしまいます。
以前のセッションで、「○○さんはものすごくやっかいな性格されていますね。でも、そういう○○さんは嫌いではないです」とフィードバックしたことがありました。
フィードバックは、なかなか難しいです。フィードバックするときこそ、自分のあり方が試されます。
自分が裸でないのに、相手のことをフィードバックすると、それは評価や批判になります。でも、自分が裸になって、相手から感じたことをお伝えするとき、それは愛になります。
このとき、何か感じられたのでしょう。ひょっとしたら、少し裸と裸の付き合いをしてみようかと思われたのかもしれませんね。
「部下と本音で話したい」とおっしゃる経営者は多くいます。しかし、自分がまず裸になれている人は、少ないです。裸になってほしいなら、まずは自分が裸になることからスタートしましょう。見抜かれたらいいのです。
また、別の経営者とのセッション中に、話していることがまったく分からないということに気づきました。
このとき、クライアントさんの世界が分からないということがハッキリ見えたのです。
今までは、どこかで分かろうとしていたのです。分からないことを隠しながら、どこかでいいコーチになろうと膜を張っていたのです。分からないことがもっとも裸の自分でした。
「ごめんなさい。何を言っているか分かりません」とお伝えしました。
「分かりませんか?」
経営者も目を白黒させていました。
「はい。まったく分かりません」
この経営者とは、もう5年以上のお付き合いになります。そんな関係で、あなたのことがまったく分からないなんて、論理的には破綻しています。このときばかりは、どう思われるだろうと少し不安になりました。
しかし、そこから経営者の言葉が静かに落ち着いたように感じました。「分かってもらおうという力みが消えた」そうです。
その方は、本当は、相手や場を感じることが得意だったのです。感じているとき、自然に身体が動くそうです。身体が動くと、言葉は自然に少なくなります。その瞬間に現れてくるボディーランゲージが、この経営者の本当の表現だったのです。
この経営者の全身からは、情熱があふれ出ています。彼を信頼するお客様は、言葉ではなく、彼自身が発するエネルギーに心惹かれていたのです。
しかし、彼は、「自分には、そんなオーラはない」と思っていたので、言葉を重ねることで、理解してもらおうとしていました。
本人が理解している自分の魅力と、周りから見えている魅力は、まったく逆のことが多いのです。これをお伝えするのもコーチの役割です。
人には、自分のことを分かって欲しいという切なる願いがあります。
ただ、残念ながら、その願いは叶いません。喜びも苦しみも、本人にしか分からないのです。
最近、禅僧の内山興正老師のお言葉をよく思い出します。
内山老師は、自己を「一般的な自己」と「自己ぎりの自己」とで、分けています。「自己ぎりの自己」とは、誰にも貸し借りできない、あなたに与えられたいのちを生きているということ。
花を見たときに発せられる「美しい」という言葉も、その感じ方は、人によって違います。「喜び」も「悲しみ」も言葉にすれば同じですが、その感じ方はすべてその人によって違います。そして、その感覚は、決して他の人には分かりません。
一方で、人は言葉という能力を持っています。言葉を使うことで、共通の価値観を共有したり、人と繋がっているという感覚を生み出します。これは「一般的な自己」です。そして、このコトバを使ったやりとりの単位として、お金があります。だから、人間世界のコトバの舞台で生きている限り、お金が最高価値ということになります。富や権益を求めて戦争を始めるのも、じつはこのコトバの世界に自分を投げ込んでいるからだと老師は述べられています。
言葉でのつながりは、あくまでも頭が作り出した幻想です。言葉にとらわれると、私たちは、共通に持っている価値観、たとえば、お金や評価、あるいはもっと豊かになりたいというこの世の論理に振り回されるようになるというのです。だから、私たちが「一般的な自己」を生きる限り、苦しみは起こり続けます。
どこかで言葉で通じているという幻から覚めて、本来の自分ぎりの世界に戻るのを大切にしたいと思います。
老師によると、仏教の根本は、「自己が自己になる」こと。それは、ふたたび繰り返されることのない、イキイキとした生命であろうとすること。
「分かってほしい」というのが、この世で生きている私たちの願いです。また、自分の中にある本当の自己に出会うのは、あなただけに与えられた「いのちからの願い」と言えます。
私は、セッションを通して、いのちからの願いに出会うサポートをしています。
私たちは、言葉で通じ合うことを前提としたコミュニケーションに慣れすぎています。
本来のコミュニケーションとは、あなたの世界は、あなたにしか分からないところからスタートします。相手の世界が分かるという幻想を捨てなければいけません。
分からないという地点からスタートするのと、分かっているという地点からスタートする世界は、まったく違います。
そして、決して分からないということを受け入れることで、人はとても楽になれます。分からないから裸の自分に戻れるのです。言葉にすると、とても孤独な世界に感じられるかもしれません。
「自分ぎりの自己」に戻ったとき、あなたは「いのち」に守られています。先程、「あなたのことが分からない」と私がお伝えした経営者も、「自己ぎりの自己」に戻ったとき、守られているエネルギーが出ていました。
永遠の孤独を認めたとき、1人ではなくなったのです。本来つながっていることに目覚めるのです。
言葉で生きるのに疲れることがあります。それは、本来の自分から遠い言葉になっているからです。言葉でつながろうとすると、本来の自分から離れていきます。
その一方で、本当の自分に近づく表現もあります。孤独で誰にも理解されない「表現」がでてきたとき、それはいのちの働きで生かされているときです。
理解し、理解されたいのも人。
孤独な自分ぎりの世界を生きているのも人。
どちらがよい悪いではありません。
一般的な言葉から、いのちのことばへと向かっていくのが、裸になるということかもしれません。
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