便利の果てに何がある?ミシンと手縫い。効率的で有意義なのはどっち?
ある本に出てくるお話。
「お母さんのお裁縫はとっても大好きだけど、1つのものをつくるのに時間かかりすぎだよ。今はあっという間にできるミシンがあるし、時間が節約できるよ。」
お母さんにショールを作ってもらった娘が言う。もっともだって思う。
娘はこう言ってる。ミシンのほうが効率的に作業を進めることができると。余った時間で違うこともできて有意義だって。
ぼくは、この質問へのお母さんの答えに、どきっとした。それをヒントに今日は効率的、有意義ってことを考えたい。
ミシンを使うと、効率的?
お母さんは、娘の質問にこう答える。
「ミシンは金属からできていて、それを得るためには掘り出さないといけない。機械を作るためには工場も必要よ。もっと有限な材料が必要になる。」
そしてこう続ける。
「金属を掘るために地下深く潜るような仕事で、どれだけ、多くの人が苦しまないといけないの?彼らの苦しみを聞いたことがある。なぜ、自分の便利さのために、彼らを苦しめなければならないの?」
と。
ミシン1つつくるために移動するたくさんの物、そしてエネルギー
ミシンはうちにもある。もちろん日本で作られてない。
台湾とかベトナム、インドネシアなんかで作られてるっぽい。
そして、その材料は鉄やらアルミやら石油やら。アフリカや、中国、オーストラリア、中東諸国、いろんなところからやってくる。
そして運んだり採掘したりするのにエネルギーがいる。
そしてそれらのための工場を建てるためのたくさんの材料。
あれ…?これってほんとに"効率的"なのかな?
ぼくらの効率的は、全体のほんの一部だけ見ていってるだけ
ぼくらの効率的とか、自分たちにとって都合がいい、全体のほんの一部分、最後のいいところだけを見て言ってるだけなんじゃないか?
たしかにミシンは早く縫えるよ?でもさ、全体をみたら、針1本のほうがよっぽど"効率的"なんじゃないか?
ぼくらの効率的は、誰かの犠牲の上に成り立つ
そしてこの便利は、危険な仕事を、安くこき使われ働く人がいることで成り立つ。そこでの環境汚染だって深刻だ。
その人達と自然の犠牲なしには、この効率的で便利な暮らしは成り立たない。
ぼくらの便利さは、ミシンを使うっていう効率的ってものは、ぼくらの無自覚の搾取と、彼らの犠牲の上に成り立っている。
そして、このお母さんは、誰かの犠牲の上に成り立つ便利に反対してミシンを使わない、ってわけでもない。
針仕事をするその時間が、静かで平和な、有意義な時間
お母さんは、こうも続ける。
「私は仕事が楽しいの。針仕事で忙しいとき、私は平和な気持ちになるの。全てが静かで穏やかだわ。ミシンがガタガタ言っている時に、そんな気持ちになれるの?」
「もし時間を節約したとして、余った時間で何をするの?仕事の時間は私の宝物なの。わたしは、ショールを作るために、ショールを作っているの。」
この言葉から、ぼくらが学ぶものは多いんじゃないかな。
ミシンを使って、速くショールを作ることができたら、それ以外の時間を有意義に使うことができる?
いや。このお母さんは、ショールを作るためにショールを作っている。その静かで平和な時間が喜び。この針仕事の時間こそが、有意義なものなんよ。
ぼくらは、この有意義な時間をつぶす便利さに身を委ね、わけがわからないことで時間を潰す
ミシンと針仕事を比較したけど、もはやミシンもなかなか使わないよね。服はもう買ってくるもの。作るものじゃない。
こういう針仕事とかさ。こういうのをやらなくてよくなって、便利になることを、豊かさっていうのかな。
家事とか、子育てとかさ。生活に関わることをしなくてよくなって、余った時間もっと仕事して、他の時間は動画見たり飲み食いしたり。これを有意義っていうのかな…。
この、便利によって消えた”生活”こそが、有意義って時間なんじゃないのかな…。
ぼくらは迷子。どこに向かってる?
確かにこの100年足らずで、100年前の人が想像もつかないぐらい便利な世の中になった。でも便利になってどうしたいんだっけ?
自然を破壊して、苦しんでいる人がいて、搾取して、そこまでして得たいものって、いったいなんなんだっけ?
みんながんばってる。搾取する側も、される側も。みんなででっかい歯車を回しててさ。止められなくて。回されるがままに、回りまわし続けるしかないようになっててさ。そして誰が幸せなのかわからない。
なにしてんだろうね。
どうしたらいいんだろうね。
本紹介
「君あり、ゆえに我あり」 サティシュ・クマール著
ここでだしたお母さんはインドの人。その息子さんが書いてる本。宗教的なとっつきにくそうな部分は飛ばして、少し手を加えて引用しました。
たくさんの学びが散りばめられた、すてきな本です。