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「人と関わると疲れてしまう」を卑下しないで
人間誰しもが会社、学校、家族など大なり小なりコミュニティに属しているでしょう。その中で人と関わることに疲労感を覚え、解放されたいと願うが、人と関わらずに一人で行動することは意外と勇気のいるもので一人での行動ができない。
「一人になりたい自分」と「一人になれない自分」、二律背反な思考を抱え現代人は生きているのではないでしょうか。
「孤高を誇る資格は、集団に背を向けることなく真正面から向き合い、付き合い続ける覚悟と責任を持ち続ける者だけが持つものだ。」
――これは私が強く感じている思想であり、孤立や逃避ではなく、他者との関わりを持ちながら成し遂げるべき「孤高」の本当の意味を表現しています。孤高は「俗世間から離れて、ひとり自分の志を守ること。また、そのさま。」という意味です。意味を見るとなんだかかっこいいイメージを抱きますが、私は使い方を間違えてはいけない言葉だとも認識しています。
孤高とは、他者との関わりから逃げることで達成されるのではなく、他者と向き合うことでやっと実現できるのです。
なぜこんなことを考えるのか、理由を説明します。人は本来、群れを成す生き物です。集団に属し、他者との関わりを持ちながらこそ、自己を確立し、精神的に成熟していくものです。だからこそ、他者との関わりを避け、自己満足に浸るだけの「孤高」には意味がないのです。
孤高と責任――偉人たちの考え
このテーマについては、過去の哲学者たちも似たような考えを示しています。彼らの言葉は、孤高という概念が単なる孤立に過ぎないのではなく、自己を確立するためには他者との関わりを避けることなく、その中で責任を持ち続ける覚悟が必要だということを教えてくれます。
フリードリヒ・ニーチェ
ニーチェは、孤独や自己実現を強調しつつも、それが単なる孤立ではなく、他者との関わりの中でこそ本当に意味を持つと考えました。彼の「孤独は強者のものだが、強者の孤独は、他者との関わりにおいてのみその価値を証明する。」という言葉は、孤高を誇る者は、集団に向き合いながらも自己を確立する覚悟を持つべきだというメッセージを強く示唆しています。
ジャン=ポール・サルトル
サルトルも、実存主義の立場から「他者は地獄だ」と言いましたが、これは人間が自由でありながらも、他者との関わりの中でこそ自己を確立し、責任を負うべきだという視点の表れでもあります。彼の「人は自由であると同時に、他者に対して責任を負う。」という名言は、他者との関わりが避けられないものであることを強調しています。
マルティン・ハイデッガー
ハイデッガーは「存在と時間」で、人間の存在が他者との関係の中で形成されると説いています。孤独は自己を理解するための一過程であり、他者との対話や関わりの中で初めて真の自己理解が生まれるという立場です。彼の「他者との関わりを避けることが、真の自由であるとする錯覚に陥ることこそ、最も大きな誤りだ。」という言葉には、他者との関わりを無視して自己を確立しようとすることへの批判が込められています。
アルベール・カミュ
カミュは、「不条理」の哲学において、孤独と向き合うことを避ける者に対しても批判的でした。彼にとって「不条理」とは、自己と世界の矛盾を受け入れ、その上で他者と共に生きることで克服するものです。彼の「生きる意味を求めることは無駄だが、他者と共に生きることに意味がある。」という言葉は、孤独や孤立が避けられないものではなく、他者との関わりの中でこそ意味が見出されるというメッセージを伝えています。
まとめ――真の孤高とは他者との関わりにこそ宿る
孤高を誇るためには、他者との関わりを避けて自己満足に浸ることは許されません。本当の孤高とは、他者との対話や関わりの中で自己を確立し、責任を持ち続けることから生まれるものです。他者と向き合い続ける覚悟がある者だけが、その孤高を誇ることができるのだと思います。
他者との関わりを避け続けることが、孤高を誇るための資格になることはありません。それは単なる逃避であり、成長や自己実現にはつながらないからです。真の孤高を誇るためには、他者との関わりの中でこそ自己を試し、鍛え、成長していく覚悟が必要なのです。
集団に属することは労力が多く疲労も伴いますが、集団に属する自分に誇りを持ってください。
文句を言いながらでも良いです。逃げずに周りと向き合っているあなたにエールを送ります。