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散歩と雑学と読書ノート


千歳川

読書ノート

6月の読書ノートで雑誌について触れたが、今回も雑誌に関連したことを幾つか書かせていただこうと思う。

1. 
「世界」(岩波書店)の7月号で「狂騒のChat GPT」と言う特集が組まれていた。その中でナオミ・クライン「『幻覚を見ている(ハルシネート)』のはAIの機械ではなく、その製作者たちだ」という記事が面白かった。ここでは、記事の始めの項である「幻覚と現実」からその内容の一部を引用しておくことにする。

「幻覚を見る」という単語は、「チャットボットが出力してきた回答が完全に作り物だったり、あるいは間違っていたりすることを指す言葉として、生成AIの設計者や推進者たちのあいだで使われるようになったものだ」とナオミ・クラインは書き始める。そして「だがそもそも何故そのエラーのことを『幻覚(ハルシネーション)』と呼ぶのだろう? どうしてアルゴリズムのごみ屑とか機械のバグとかではだめなのか?」と述べ、さらに「ラリった幻覚作用は実際、AIの世界で広まりつつある。だがしかし、それに浸っているのはボットではない。それを放出したテック企業のCEOたちのほうだ。そして、彼らを取り囲んでいるファンの隊列もまた、個人的にも集団的にも激しい幻覚に捉えられている」と主張する。

そのうえで、ナオミ・クラインは自らが考える「幻覚」の具体的な例を次のように述べる。

「生成AIは貧困をなくしてくれるだろう、と彼らは言ってくる。あらゆる病気を治してくれるだろう。気候変動を解決してくれるだろう。私たちの仕事をより楽しく意味あるものにしてくれるだろう。楽しみや考え事のための時間を開放し、後期資本主義の機械化によって私たちが失ってしまった人間性を取り戻させてくれるだろう。孤独をなくしてくれるだろう。私たちの政府を合理的で聞き分けのよいものにしてくれるだろう。私が思うに、こうしたものこそが真の幻覚であり、昨年末にChat GPTが公開されて以来、私たちみながループのように繰り返し聞かされつづけてきたものだ」

2.
 6月のnoteに書いた記事で私は「みすず」と言う雑誌に関して次のように述べた。

「みすず」は、みすず書房の広報誌であるが良質のエッセイなどが掲載されていて毎号私は楽しみにしている。しかし、今年の11月には紙媒体の雑誌としては廃刊になる予定のようである。

しかしこの記事は私の間違いで、実際には紙媒体の「みすず」は8月号で休刊となり、9月からはWEB「みすず」に移行することになるとのことである。

紙媒体の「みすず」は1959年4月創刊で、64年間という長い期間発刊されてきた。

今回で最終刊となる8月号(通巻728号)には二人の精神科医が記事を寄せている。依存症臨床の第一人者である松本俊彦と本格的な精神分析家として開業している藤山直樹の二人である。

● 松本俊彦はこの雑誌に連載していたエッセイを書籍化した「誰がために医師はいるークスリとヒトの現代論」によって話題をさらった。

● 藤山直樹はこの雑誌に「精神分析家、鮨屋で考える」というエッセイを2019年から2021年まで隔月で連載していた。私はずっと楽しみに読ませてもらってきた。できたらもう少し分量を増やして書籍化してもらいたいものだと思っている。今回藤山は「みすず」の休刊を惜しみながら、このエッセイについて次のように述べている。

鮨という文化と精神分析という文化、人間を相手に商売する営みの上に花開いたふたつの文化、人間のこころという自然、地球の海という自然を相手にするふたつの文化のあいだを、私が精神分析家として思い巡らせる、そういう書き物であるはずだった。

もう少し「みすず」について書かせていただきたい。

● 頭木弘樹によるカフカの「変身」の新しい訳文が今回で16回目になった。3年かけて全体の約半分に達した超スローな訳であったが私はやはり楽しみに読ませてもらった。この続きもいずれ著作として読ませていただきたいものだと思っている。

● もう一人村上春樹の小説を映画化した「ドライブ・マイ・カー」で知られる、映画監督濱口竜介のエッセイも心にしみるものであった。

濱口は「思い出の映画館」について語ってほしいと編集からの丁寧な依頼があった、そこには間もなく休刊を迎える「紙の雑誌」と「映画館」が重ね合わせられていることを強く感じたと述べている。

映画館に関して濱口は、「映画館」という場所がもし現代において必要とされていなければ、消え去るのみだ。消え去ることで損失を被るのが「人類」でしかないとしても、それはそういうものだ。

としながらも、一方で冒頭に昨年、フランスの雑誌「レザンロキュプティープル」に寄稿したという次のような文章を掲載していて。そこに濱口の本音の主張が表現されている。(悲鳴のようにも私には思われたが)

映画には人生を変える力があると言われます。それは間違いではありませんが、実は人生を変える力をより強く持っているのは「映画館」という場の方です。……映画館という、集団で映画を見る場のほうが、驚くほど個人の身体に深く、決定的に働きかけます。映画館の暗闇が私達の輪郭を溶かしてしまうからでしょうか。……映画館に入る前と後では、まったく違う人間であり得ます。映画は身体に入り込んで、自分の人生を支える芯棒のような役割を果たします。そんなにも強烈な二時間は「劇場」という場以外では生まれ得ないでしょう。
愚かかもしれませんが、私は映画館の未来に対して、徹底的に楽天的です。
「映画館で映画を見る」。人類がこれほど強烈な快楽を手放す未来を、私は
想像することができません。

私はこのエッセイを読んだ後、娘の夫と二人で、千歳空港の映画館に、宮崎駿の新作アニメ「君たちはどう生きるか」を見に行った。いい歳をした男二人でポップコーンをほおばるという何とも様にならない姿を暗闇に溶かしてもらって、いささか難解なアニメを集中しながら見ることができた。見終わって私はあまりよくは分らなかったという娘の夫に解説めいた感想を饒舌に語ってしまったが私自身もよく理解したわけではなかった。アニメに込めた宮崎駿の思いを少し知ったうえであと1,2回見ることができたら理解がもう少し行き届くような気がする?作品であった。

3.
「思想」の7月号の特集は「E・H・カーと『歴史とは何か』」、8月号は
「見田宗介/真木悠介」であった。


● 「E・H・カーと『歴史とは何か』」という特集は、2022年に東京大学名誉教授(歴史学)の近藤和彦によって新たに訳された、E・H・カーの6回に渡る連続講演を収めた「歴史とは何か 新版」(岩波書店)をめぐる論考である。近藤が、「いま『歴史とは何か』を読み直す」という「思想の言葉」を書いている。そのなかで、以前の清水幾太郎による訳と比較して、新訳の意義についても触れている。さらに10人の歴史学者や哲学者や思想史の学者がそれぞれに近藤の新版を読み解いて論じている。それだけ、この新訳があるいは連続講演が今なお知的刺激を与えるものであるという事だろう。10人の論者のなかで、私がこれまで著書を読んだことのある論者は、加藤陽子、成田龍一、上村忠男の三氏であった。

私はずいぶん以前に読んだことのある清水幾太郎訳の「歴史とは何か」(岩波新書、1962)を書棚にあるかと思い探したが見つからなかった。清水の訳は名訳と言われている。しかし、私はそこに何が書かれていたかの記憶がまったく残っていないことに気が付いて少し驚いた。しかし、私の記憶力はこのようなものだ。AIだったら忘れることがないのだろう。

私はこの特集を知ってから「歴史とは何か 新版」を手に入れた。まだきちんと読んでいないが、清水訳にはなかった短い「自叙伝」が面白かった。

近藤和彦は訳者解説に「歴史とは何か」のなかに書かれている有名な文章として次のものを挙げている。

「歴史とは、歴史家とその事実のあいだの相互作用の絶えまないプロセスであり、現在と過去の間の終わりのない対話なのです。」

「過去は現在の光に照らされて初めて知覚できるようになり、現在は過去の光に照らされて初めて十分に理解できるようになるのです。」

そのほかに、「すべての歴史は「現代史」である」とか「歴史を研究する前に、歴史家を研究せよ」というセンテンスを挙げている。

最後のセンテンスを読むと、E・H・カーが残した「自叙伝」が意義深く思えてくる。

私は精神医学や精神の病をめぐる歴史に関心があり、歴史をどうとらえるかを考える意味でも「歴史とは何か 新版」をしっかり読んでおこうと思っている。

● 「見田宗介/真木悠介」という特集に関しては次の自著からの紹介で、1960年代に関する文章を取り上げるさいに少し触れさせてもらうことにする。


                ***


2020年 自費出版

「こころの風景、脳の風景―コミュニケーションと認知の精神病理―Ⅰ、Ⅱ」より


今回は1960年代に関して触れてみたい。


「読書ノート」

★  「私の1960年代」 山本義隆、金曜日、2015

 1960年代は、安保反対の叫び声から始まった。そしてベトナム反戦運動、学生運動があり、終わりの年には、東大安田講堂を占拠した学生が強制的に排除された。その間に高度経済成長期が進行し、人々は次第に豊かになった。同時に現在の中国のように公害が多発した。坂本九が「上を向いて歩こう」と歌い、東京でオリンピックが開催された。少し後にビートルズとサルトルが来日した。そして「平凡パンチ」に五木寛之の「青年は荒野をめざす」が連載された。いつの時代も様々な出来事で騒々しいものだが、1960 年代はその騒々しさの背後で何か根底的な変化のあった時代のように私は思う。日本の歴史の中で、庶民の生活が大きく変化したのは、応仁の乱を中心とする14~15世紀と1960 年代の2回だと述べる識者もいる。

1950年代の後半の東京を描いた映画「ALWAYS 三丁目の夕日」にはまだ近所づきあいや三世帯同居の大家族世帯が残っている昔からの庶民生活の風景が息づいていた。一方で、当時からすでに若者たちの東京に向けた集団就職が始まっていたことがわかる。1960年代の庶民生活の大きな変化とは何かと考えたときに思い浮かぶこととして、郊外の団地に象徴されるような、核家族化の進行と近所やお隣さんとの付き合いが影をひそめていったことを私は挙げておきたいと思う。

そういえば農業人口が5割を切ったのは1965年であった。そして、この年を境に、狐が悪さをするという話を日本のどこを旅していても聴くことができなくなったと、「日本人はなぜ狐にだまされなくなったのか」という本の中で哲学者の内山節氏が書いている。

さて私にとってのこの時代は何といっても、デモや異議申し立てにより学生が変化をめざした時代であった。それは、先進国に同時発生したグローバルな学生の反乱の日本版であり、私の所属する大学も例外ではなかった。しかし反乱はややあっけなく頓挫した。特に1972 年のおぞましい浅間山荘事件の後は世間では、すべての反乱をこの事件に収斂させて総括され、批判的沈黙が支配した。大学の改革をめぐる全共闘の闘争と赤軍派の浅間山荘事件が全く関係ないこととは言わないが、この両者を一緒にしてごっちゃに論じるのはおかしなことだと私は思うのだが。

今回取り上げた「私の1960 年代」の内容にここで直接触れる余裕がなくなってしまったが、この著書は当時を振り返るための貴重な資料でもある。著者の山本義隆は学生の反乱を代表する人物であった。当時、東大物理学科の大学院生であり、同時に東大全共闘の代表であった彼は、1969 年1月には安田講堂のなかに立てこもっていた。その後、彼は駿台予備学校の教師をしながら科学史(物理学)の学者として、「磁力と重力の発見」や「16世紀文化革命」などの優れた著書を出している。山本が本書を書いたのは、福島の原発事故や、安保法制の強行採決などに危機感を抱いた為のようだ。確かに現在の日本の動きは、1960 年代と同じように、アメリカの戦争に巻き込まれ、戦争のできる国に変貌していくのではないか、大学が自由を失い、権力や企業や戦争に役立つことのみを強要されていくのではないかという不安を抱かせる雰囲気が漂っている。

「時間と生命」(2010 年、書籍工房早山)、「バイオエピステモロジー」(2015 年、書籍工房早山) 米本昌平

米本昌平も1960 年代の学生運動に強く影響を受けた一人である。彼は1972 年に京都大学理学部(生物学科)を卒業し、在野で独学の学者として生きることを選択した。科学史、科学論の学者として、「遺伝管理社会」、「バイオポリテックス」などの優れた著書をだした後、米本は学生時代にであったハンス・ドリーシュの「生気論の歴史と理論」の翻訳を2007年にだした。この本は20 世紀最大の悪書と評され、生物学に目的論や生命力(エンテレキー)といった非科学的概念を持ち込むものと嫌悪されている。米本は今回取り上げた二著でその点を吟味し、ドリーシュを新たな視点で蘇らせる。まず、生命の中に存在する目的論的な過程を38億年の生命進化の結果獲得したものと解釈し、進化論を逆にたどって理解することを提案し、さらに生きたままの細胞の観察を今後の課題として提案する。次にその生命の合目的性を保証するエンテレキー(生命力)の概念を情報の概念を導入し、負のエントロピーに近づけて解釈しなおすという発想によって生気論を脱構築する。米本はこの二冊の異端の著書を、1969 年の安田講堂にあった落書きの中の「連帯を求めて孤立を恐れず」という文で結んでいる。(2015年11月)

付記
1.
私にとっての1960年代とは

安保闘争のあった1960年は私が高校三年生の時だった。私は一年の浪人のあと、札幌医科大学に入学し1968年に卒業した。学生生活には楽しい思い出も沢山あるのだが、私はこのままでよいのかという全く漠然とした答えの見つからない悩みと迷いの中で医学生としては不適応の状態にあった。そのため医学の勉強に集中できなかった。喫茶店にいる時間が多くなり、医学とはあまり関係のない文系や理系の書物を交互に読み漁った。それは今でも続いている。学問が嫌いであったわけではない。卒後一年間の研修の後、1969年には衛生学教室で研究生としてウィルスの疫学研究の補助的な仕事をしていた。もっともこの一年間は大学闘争による学園封鎖の時期に当たっていて本格的な研究が行われていたわけではない。1970年から私は精神科医の道を歩み始めた。

このnote で毎回記事を紹介させてもらっている自著のなかで私は学園闘争に関連した出来事にも結構触れている。

ここでは、「回想と感想(1966年~1970年)」と題した記事のなかから、当時の私のささやかな体験を少しでも伝えてみたいと思う。断片的になるが、いくつかの文章を書きだしてみる。私にとって1960年代はたくさんの恥ずかしい思い出を含めて、さまざまな思いの詰まった大切な時代である。

1967年、私は翌年卒業の予定であった。卒業試験の勉強にはほとんど集中できず、レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」に熱中したりしていた。……私たちのクラスはインターン制度反対のための抗議として、国家試験をボイコットするか否かで揺れていた。私はボイコットをすることに決めていた。60人のクラスで6人がボイコットをした。(このことで翌年の研修で胸部外科の和田次郎教授に激怒された。お前のような、気狂いみたいなやつは医者にならなくてもいい、国家試験をうけないとは何事だ。お母さんはどんな思いでいるかわかるか。私は教授の怒りもわからないではなかったが、さすがにお母さんは勘弁してほしいと思った。なお私は和田教授のことがそんなに嫌いではない。私が研修を終えた翌月に心臓移植が行われた。)」

1968年はフランスで5月革命があった年で、世界中に学生たちの反乱が拡大していった年であった。パリからは中村雄二郎氏などが「展望」などの雑誌に当時の状況を報告していた。私はそれをむさぼるように読んだ。またプラハの春とその鎮圧のために動いたソ連とワルシャワ条約機構軍によるチェコ全土の制圧のあった年でもあるし、中国では文化大革命が吹き荒れていた。

その年の3月に教授達に対する不信の念が私たちのクラス中に充満するまま、たいした感激もない卒業式が、学生と教授たち双方に燃焼しきれない不機嫌な思いを残し、心の交流の途絶えたままあわただしく終わった。私は卒業式をそんな風に感じていた。」

「怠け者で劣等生の私がこんなことを言える資格は全くないのだが、あえて臆面もなく言ってしまえば、当時の私は教授たちのおこなう、教育のありかたに纏りのつかない不満を感じていた。授業の内容は卒業したあとの現実の臨床にはあきれるほど対応していないものに思えた。教授たちが熱心に情熱を傾けて教育してくれたことを承知はしているのだが、当時の私は教育によって、自分の学問的な情熱が高められたと感じることはあまりなかった。

今それを振り返るならば、当然にも、しっかり授業を受けないで、不満を漏らしているだけの自己弁護に過ぎないと思える。また当時よりは、少し教育の難しさに思い至ることもできるので、今はおのずと別な感想が湧いてくる。」

「当時全共闘が学問の根本的な在り方とは何かと問いかけたことに私は強く共感していた。それではどうすればよいのだ、全共闘の学生たちには展望がないという批判もあるが、学生たちは鋭く問いかけたのであってそれに対する応答責任は教官の側にあったと言えるのではないかと私は思う。」

「ところで、ずいぶん後になって、私はフランスの社会学者ブルドゥーが1960年代当時の高等教育の在り方を分析した論文を読んだ。それはフランスのこととはいえ、ある程度日本にも当てはまる内容で、共感できるものであった。彼の言い分を私なりに敷衍してみると、当時の学生たちの世界同時的な反乱の原因の少なくともその一部に、どの国にも存在していた文化遺産の相続人である学生という大学における知的労働者の再生産(つまり教育)とその社会的な再配分に関するシステム上の混乱の影響があったと言えるのではあるまいか。すなわち、高等教育のシステムが、膨れあがったそのユーザーをまったく満足させていなかったことに、そして教育後に社会がどのように彼らを受け入れるかに関しても納得のいくシステムができていいなかったことにあったのではあるまいか。ということがブルドゥーが主張していることだと私は受けとめた。この件は現在も解決しないまま引きずっていると言えるのではあるまいか。」

1969年3月に、卒業後の一年間の研修を終えたあと、私はどの科を選択するか決めなければならなくなった。……(すぐ臨床に進む自信もないまま、当時、関心を持っていた免疫学と分子生物学の両方を勉強できると考えて)ウイルス感染の疫学を中心に研究している衛生学教室を考え、勇気を奮っ教授にお願いに行った。出来の悪い私に、教授は渋い顔をされたが、私は一年間だけでも研究生として置いていただきたいと頼み込んで何とか許可を得た。

2011年岩波文庫に新しく収録された「サイバネティクス」を買ったのを機会に、私は以前読んでいた1962年刊「サイバネティクス」を書棚から久しぶりに出してページをめくってみた、するとセピア色に変色したわら半紙が一枚挟まっていた。それには、ガリ版印刷で、「教授会が(1969年の)来る12月12日早朝、機動隊の導入を要請したことに断固反対し戦い抜く」と書かれていた。それは臨床大学院生会のビラであった。そのビラによって私は過去に連れ戻された。当時、私は研究生として基礎の助大研(助手、大学院、研究生の会)に所属していた。この会は大学封鎖をしている学生たちと連帯し、支援をする趣旨の会であった。封鎖が解除された日に助大研も解散することになり、反省会がもたれた。私は、封鎖を支持していたと述べたが、他のメンバーはみんな反対だったことが分かった。われわれの「ナンセンス・ドジカル」な大学の政治の季節はあっけなく終わった。」

現在1960年代が歴史として語り始められている。その歴史と言う視線の中で特に全共闘運動によって担われた大学闘争とは何だったのかという事に私は関心がある。そこで提起された、真の学問とは何か、それを支える大学のシステムはどうあるべきかといった問いかけは、その後どう答えようとされたのか、あるいは無視(否認)されたのか。あるいは批判的沈黙の中に忘れさられたのか。

E・H・カーが言うように、すべての歴史が「現代史」であるとしたら、大学闘争という過去の光に照らして現在はどうなっているのだろうか。

私は私にとって、若気のいたりによる失敗も多い当時のささやかな体験が歴史の中でどのような意味があるのかをあくまでも自分の問題としてもう少し考えてみたいと思っている。

2.
社会学者見田宗介が2022年4月に84歳で急逝された。周知のように、見田は真木悠介という筆名でも著作を行っている。私は見田の優れた弟子である大澤真幸の精力的な紹介などに促されて、「気流の鳴る音」や「現代社会の存立構造」、「時間の比較社会学」、「自我の起源」など真木悠介の名で出された重要な著作や見田宗介の幾つかの著作を読んできた。

先にも触れたように、「思想」の8月号で「見田宗介/真木悠介」の特集が組まれている。特集では見田ゼミで育てられた学者たちが論文を寄せている。

ここでは、吉見俊哉の「東大紛争と見田宗介=真木悠介」という論文にのみ触れさせてもらうことにする。
この論文は吉見俊哉が2023年3月19日に東大安田講堂で行った最終講義「東大紛争1968~69」を下敷きにその重要な論点を再構成したものであると記されている。

このことは、1960年代の出来事が歴史の一部として学問的に論じられ始めてていることを象徴的に物語るものであると私には思われる。

実際、吉見は東大紛争に関する多くの資料が集積しアーカイブ化が進んでいて、それらを基盤に研究も活発化しているという。資料の中には山本義隆の著書や当時のことを率直に語ったインタビューも含まれているという。また2000年代以降「1968」年を問い返す試みが世界規模で起きていることにも触れている。

吉見の論文は、「見田宗介」と「真木悠介」の使い分けの端緒がどこにあるのかという疑問から書き始める。吉見はその答えを、佐藤健二による検証に基づいて次のように解説する。

「真木悠介は、大学闘争の場で提起された根源的な問題への、応答責任を果たすために生み出された主体だった」したがって、「真木悠介」は見田宗介のいわゆる「ペンネーム」ではない。むしろ、若手教員として東大闘争に直面し、学生たちが「組織としての学部や大学のあり方だけでなく、研究をするということそのものの意義をも問うていた」ことに衝撃を受け、見田宗介は「肚(はら)をきめ」たのである。その「肚」の奥底から浮上した主体が、「真木悠介」だった。」

見田宗介は1969年4月2日に「態度表明」という文書を発表した。それによって、現時点で授業の再開はしないこと、大学人として本来的な課題と責任を遂行することを表明した。いつも満席であったという見田ゼミはその遂行の一つであったのだろう。

吉見は論文のなかでさらに、東大紛争に関してよく知られた四つの論点をあげている。もっとも私はこの論文で初めて知った論点であるのだが、第一に紛争初期に東京大学を代表していた大河内一男総長は、なぜかくも重大な戦略的失敗を繰り返したのか、第二に全共闘は、なぜ適切なタイミングに戦略的妥協ができなかったのか。第三は学生反乱が語られるときに東大紛争が常に象徴的イメージであるのはなぜか。そして第四に紛争を通じて大学の何が失われたのか。この紛争では、戦後リベラル派知識人の欺瞞性が厳しく問われた。そこではいったい誰が、いかなる大学の権威を粉砕したのか。

私はこの論点のなかでは、第二と第四の論点に関心がある。これらの論点はこれからも論じられていくのだろう。

吉見の論文によって見田宗介が学生たちの問いかけに真剣に応答しようとした若手教官であったことがわかって私は嬉しかった。

1960年代に関してはまだ論じたりないが今回はこのくらいにしておきたい。








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