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『葬送のフリーレン』感想(下)

 


導入(遊民和尚のnoteを契機にして)


  葬送のフリーレンという作品の魅力については、前半のnoteで述べた通りなのですが、28話を観て思わず私も自らの個人的な体験を想起し、そこから自らの中にある体験を落とし込む経験(「私」の「物語」の「再解釈」)をしたので、個人的な話になりますが、最後にそのことについて少し文章にしてみます。

 事前に断っておきたいことがあります。今回インターネットでは何よりも嫌われる自分語り、、、、、、、、、、、、をしようと思えたのは、何よりも仏教徒ちゃんこと堀部遊民和尚の次のnoteを読んだことが、一番の要因です。こうした個人的な話は公開の文章にする必要のないものである気がしますが、ただ私自身としても整理しておきたい内容であり、「個人的なことを語ることができない世界で、人は一体何を語るのか?」(そんな世界は、とても窮屈で息苦しいものでしょう)とも思いますので、今回公開することにしました。



 このnoteでは私の言葉でいえば、過去の人生で起こったことが、遡行して再解釈され、それが「いまこれから」の僧侶として生きるうえで必然であったことが、自らの人生だけではなく、(遊民和尚にとって)お父様を理解されるうえでも、必要な経緯だったことが語られます。そして何よりも、この再解釈が無理に自らに言い聞かせるものではないこと、これが本人だけでなく読者にも伝わってくるからこそ、このnoteが人の心に響いたのでしょう。
 この遊民和尚のお父様の再解釈については、私が前半のnoteで書いたフリーレンの魅力とピタリと一致するものです。繰り返しますが、これは誰かから教えられるものではなく、”自らで物語るもの"でなければなりません。ここに”こそ”、私たちの持つ可能性があり、さらに踏み込んで言ってしまえば、これは私たちが「自由に選択」できる数少ないことのひとつでもあるからです。
 外から見てみると、遊民和尚が師匠であるお父様を理解することができた経緯は、残酷であるようにみえてしまうかもしれません。しかしながら、繰り返しますが、このnoteからは遊民和尚がお父様の病気以降でこのことについて後悔している様子は、全く感じられません。また、遊民和尚が強がっているわけでも、無理に自ら言い聞かせるものでもないことは、次のポストにも如実に表れています。

自らに強引に言い聞かせることなく、自らを物語ること、これこそが重要ですし、何よりも当人にとっての財産になります。




『薬屋のひとりごと』との相関点 

 ※未視聴の方は飛ばしていただいて結構です

 直近のアニメで言えば、『薬屋のひとりごと』のアニメ24話において主人公猫猫マオマオの実父である羅漢ラカンが、鳳仙フォンシェンとの再会について、彼ら二人がそれぞれの環境、そして性格ゆえに結ばれたことを振り返り、ベストな再開では決してなかったが、「こういった形、、、、、、でしか分かり合うことができなかった(=出会うこともなかった)」ことを心から納得し、そして、「いまここで」互いに碁ができること、まさにこの瞬間、これこそが至上の喜びであり、この機を二度と逃すまいと噛みしめている姿、これも上述の遊民和尚による「過去」の「再解釈」と「私」の「物語」の再構築「再解釈」)と酷似する現象です。
 さらにこのシーンでは、羅漢の至上の喜びとの対比として、当時の事情を知る妓女の梅梅メイメイが鳳仙の不器用さを嘆き、思わず涙を流す演出がより一層、羅漢の喜びを際立たせます。彼の中で後悔と自責の念で止まっていた時間が、今まさに動き出さんとするこの瞬間とその喜びが、視る者の心に響いたはずです。野暮を承知でさらに詳しく解説すれば、鳳仙が梅梅の言うように素直な人間であったならば、そもそも羅漢に惹かれる、、、、こともなく、羅漢の側も、誇りを固めたような性格(羅漢による鳳仙評)である鳳仙の女心がわかるほど器用な人間(社会や人間関係を上手くこなせる)ならば、鳳仙に惹かれることもなかったのであり、彼らのこうした環境とその人格を踏まえれば、その出会いの瞬間から/始めからこのような結末を迎える以外ない運命であったと言えるでしょう。
 しかしながら、そうした残酷な運命の中においてでも自らの人生を肯定できる(ここに、やせ我慢は一切ない!)、ここにこそ人間が生きることの愚かさゆえの「偉大さ」、そして美しさがあります。傍から見れば、かつて真っ赤な薔薇の花のように美しい存在であった鳳仙が、もはやかつての姿は微塵もないほど枯れ果てた花の亡骸のような存在にしか見えず、そのような亡霊が碁をする姿は、余りにも惨めで救いようのないものにしか映らないものであっても、羅漢の目から見える現在の彼女は、誇りを固めたような人格であった鳳仙(過去から現在までの彼女という物語)ゆえの「枯れても美しい花」であり、彼の目に映るその姿は、かつての輝きを少しもそこなってはいません。彼の眼には、むしろその輝きはより一層増しているようにさえ見えています。
 この感動的な羅漢と鳳仙の再開は、愚かな、、、彼ら二人によってこの世に誕生することになった娘、猫猫によって導かれたという事実、これもまた視聴者の心を揺さぶるトリガーになっていることは、改めて言うまでもないでしょう。そして、その猫猫による彼ら二人への評価が、「(鳳仙について)私を産んだ女」、「(羅漢について)せいぜい種馬がいいところでしょう。(中略)叔父と引き合わせてくれたことは感謝している」、という厳しいものであることもまた、親としての義務を果たしているとはお世辞にも言えない彼ら二人と猫猫の境遇を思えば、納得のいくものです。
 余談ですが、羅漢が鳳仙を身請けした(彼自身の後悔(≒問題)を乗り越えた)後でも、羅漢自身の不器用さは何も変わっていないところも、個人的にはとても好感が持てる部分です。やたらと他人に妻である(※羅漢の意図を尊重して、妻と表記しています)鳳仙の自慢話をする彼の姿は、根本的な不器用さ自体は解決できない彼自身の能力的限界の象徴でしょう。


 ついついオタクトークが長くなってしまいましたが、私が遊民和尚のnoteに感動したのは、坐禅会などを通してその人柄を知っている点も大きいかもしれません。直接お会いして5分も話せば皆さんにも理解いただけると思いますが、遊民和尚はいわゆる根っからの陽キャでしょう。これに関連して、以前noteで「底なしの明るさ」が人を照らす、という内容の記事を書きましたが、まさにそうしたお人柄であることは、TiktokInstagramの動画の画面越しからも伝わってきます。
 逆に言えば、(大変失礼な表現かもしれませんが)そうした人であっても、このような過去の奮闘があり、その苦しみの中から始めて切実な思いが生じることもあるのか、と新鮮な発見になりました。そして、それは「育ちが悪い(≒基本的に他人を信頼しない)」私のような人間にとっては、誰しもが直面する問題である、という意味である種の福音にもなります。これが、Do AS Infinity『陽の当たる坂道』で語られる「誰もがいつか越える坂道」というやつでしょう。ヴォーカルの伴都美子さんによって祈るように歌いあげられるこの歌は、中学時代の筆者の心を癒してくれたものです。


個人的にはゼロ年代を代表するJ-popの中のひとつだと思いますが、特に下に引用した歌詞については、アニメ24話視聴後に一度この曲を聴けば、まさに羅漢のことを歌ったものである、そう思わず感じてしまいます。

宝物だと 呼べる物は 何ひとつも
見つけられないまま
大人になってゆく

何もかもが 全部このままじゃ
終われない

誰もがいつか 越える坂道
その先には
まるであの日の 素顔のままの 僕等がいる

遠まわりでも 必ず たどりつける
きっと きっと いつか

Do AS Infinity『陽の当たる坂道』より一部引用 



 こうした遊民和尚の人柄は下のNumaさんのブログ記事からもよく伝わってきます。心にあるネガティブな出来事を引き出してもいいと思えるような、そうした自然な明るさがNumaさんにも届き、だからこそ、このように自身の感情を素直に吐き出せたのでしょう。Numaさんの人柄もよくわかる(坐禅会で何度かお会いしてお話したことがある)大変すばらしいブログ記事ですので、一読をお勧めします。



 それにしても、私たちは失ってから、、、、、始めて喪失した対象の「価値」に気づき、そこから生じる切実な想いが、私たちを本気で行動させるのだと、つくづく思うばかりです。その意味で、私たちはやはりどうしようもないほど「愚かな」存在であるのでしょう。この「愚かさ」をことごとく痛感させられた後で、同じ過ちを繰り返さないよういかに行動するか、そこが私たちに残された選択の自由であり、この「愚かさ」を受け入れた後で、はじめて私たちは自由に選択ができるのでしょう。
 実はこの遊民和尚のお父様の話は、以前お会いした際に個人的にお聞きしたことがあり、「とてもいい話なので、みなさんにも響くものがあると思います。文章もしくは動画にはなさらないのですか?」とお聞きしたところ、「(今のところ)そのつもりはない」との回答でした。今回改めて公に後悔することになった理由を、次回直接お会いした時に是非お聞きしたいところです。


 



フリーレンの変化について


 さて、そんなわけで話はフリーレンに戻りますが、2クールの最終話の28話、これが本当に素晴らしかったです。まさに最終話にふさわしく『葬送のフリーレン』というアニメを総括する内容だったと思います。原作を読んだときの印象としては、一級魔法使い選抜試験編は、個人的に「イマイチだな」と感じていたので、これには正直驚きました。やはり、今作はアニメでより素晴らしくなったという印象です。
 その28話のすべてを語ろうとすると、とんでもない文量になるので、ここでは個人的に響いた部分だけの紹介とさせていただきます。何より、私の心に響いたのは28話のラスト5分程度です。ここに、フリーレンという作品の魅力が詰まっているといってもいいのではないでしょうか。その前に、まずは主人公のフリーレンについて簡単に確認しておきましょう。

 フリーレンにとって、ヒンメルという存在の死を通して、「人間」を知ろうとする旅が始まります。それは彼女がヒンメルの死を通して、始めて(ハイター、アイゼンを含む)彼らの存在と、ともに過ごした10年という時間が自らにとって大事なものであったことに気づいたからに他なりません。これが既に述べた、失うことで大切なものに気づく、という「愚かな」部分です。そして彼女は、はじめは自分のために、、、、、、人間を知ろうとする旅を始めます。そうして旅をする中で、フェルン、シュタルク、ザインという仲間と出会うことになります。しかしアニメ一期に関しては、ED映像にも露骨に表れているように、次世代の彼らとのやりとりを通じて、動画でVupasamaさんが言うように、ヒンメル達との冒険をやり直して(生きなおして)いる部分がとても強い。この時点では、彼女はまだ過去、、に吸い寄せられていると言ってもいいでしょう。


『葬送のフリーレン』一期EDより
フリーレンはヒンメル達の最後尾にいるのが印象的です

 

 一期のEDではフリーレンが一番後ろでヒンメル達の後ろを追いかけ、
現在のフリーレンの目玉が、その過去の記憶を振り返っているようにみえます。
 一方、二期の28話において、この構図は明確に変わっています(後述参照)。アニメではこの点が意図して強調されており、二期のOPでもフリーレンが次世代を引っ張っている映像が流れます。
 下画像は前を歩くシュタルク達が振り返り、ザインが手を振る場面ですが、かつてヒンメルがフリーレン達を先導していたように、現在ではフリーレンが次世代の歩みを後ろから見守っているようにも見えます。



『葬送のフリーレン』2期OPより
フリーレンは後方にいるが、前方にいる仲間がフリーレンに振り返る動作が入ることにより、
フリーレンが頼られている存在であることが伺える

  




アニメ28話に関連して



アニメ28話「また会ったときに恥ずかしいからね」の意味


 さて、フリーレンという存在について簡単に確認したところで、ようやく28話のタイトルについてです。アニメではその意味が、原作よりも強調されるようになっていました。解説するのも野暮だと思いますが、フリーレン達がカンネ、ラヴィ―ネと別れるシーンから詳しく見ていきましょう。


①フェルンとシュタルクより「やけにあっさり、人と別れる」と指摘された時のフリーレン
②シームレスに過去の場面へ
③「涙の別れなんて僕たちには似合わない」というヒンメル
④③のヒンメルのセリフについて「何も理解できていない当時のフリーレン」
⑤タイトルの「また会ったときに恥ずかしいからね」そして、エンドロールへ
⑥エンディングクレジット1
⑦エンディングクレジット2
⑧ED後Cパートで再び現在へ
⑨過去のヒンメル達との記憶を懐かしく思い出しているフリーレンの姿
⑩フリーレンによる「また会ったときに恥ずかしいからね」のシーン



①のシーンについて、Cパートで再び戻ってくるという意味で、とても大きな意味を持ちます。何度も言っていますが、『葬送のフリーレン』という作品は徹底して現在に戻ってくる作品なのです。

②において、フリーレンが「ヒンメルってあっさり人と別れるよね」と指摘し、アイゼン「(ヒンメル)らしくない気もする」、ハイター「彼とは毎日のように酒を飲みかわし・・・(アニメオリジナル)」と同調します。
※ちなみに原作だと過去のシーンに入る前に⑨のフリーレンの表情が挟みこまれており、アニメ版の方が、フリーレンが「今を生きている」ことが強調される表現となっています。※最後に原作の該当シーンも載せておきます

③のシーンが何よりも重要でしょう。タイトルの意味は実は”ここ”に込められていると言ってもいいのではないでしょうか。ここでヒンメルは「僕たちには涙の別れなんて似合わない」と言い、その意味は⑤の場面でわかります。

③の後に、④のシーンでフリーレンによる「何もわかっていないな、こいつ!」という無表情のシーンが入ります。これもアニメオリジナルですが、大変素晴らしい表現です(理由は後述)。

⑤のシーンの後こそが大事なのですが、この後徐々にフェードアウトしていき、エンドロールへ移行します(③のあたりからかぶさるようにED曲の『Anytime Anywhere』が流れて始めている)。この⑤の後のフェードアウトし、一瞬暗くなってからEDに入るのですが、視聴者は、⑤におけるヒンメルの言葉の意味を理解し、この余韻を味わいながらエンドロールを視聴することになります。この場面で流れた歌詞を下に抜粋します。

笑ってほしくて
鮮明でいたい記憶を抱きしめている

milet 『Anytime Anywhere』より引用


 ここから、ヒンメルが「また会ったときに恥ずかしいからね」と言ったのは、文字通り「再開した時に、(もう会えないと思っていたから)恥ずかしい」という意味だけではないことがわかります。
 ③のシーンを思い出してください。「涙の別れは僕たちには似合わない」とヒンメルは言いました。それは、何よりもなんでもないような冒険”こそ”がかけがえのないものであることを、彼は誰よりも知っているからです。そしてこれは、「別れの際は、別れ自体の悲しみよりも、何でもない日常(=魔王を倒す長い冒険のこと)を思い出してほしい」という彼の美学でもあります。このことを伝えるために、敢えて狙って③の場面からEDを流したのでしょう。これは、二期の通常EDの二番からの『Anytime Anywhere』ではなく、あえて上記の様に変更していることからも、製作側によって意図的に仕組まれたものであることがわかります。
 そしてエンドロールにおいて、一枚絵の⑥のお墓、⑦のアイゼンの祈る姿を通して、私たちは、自らにとって大事な存在であった人達の別れの場面ではなく、亡くなった大事な存在について、その「かけがえのない場面」を思い出すことになります(これについては後ほど、さらに詳しく述べます)。
 ちなみに、この⑥⑦両方ともアニメオリジナルの場面であり、一枚絵でフリーレンたちの物語の余韻に浸りながら追い打ちをかけてくる効果があり、これが本当にいい味を出しています。物語冒頭でヒンメルとの別れを経て、ようやくフリーレンがヒンメル達との冒険を「かけがえのないもの」として認識できたように、この演出は、私たち自身の過去のかけがえのないものを想起させます。そしてこれは、フリーレンが今を生きるために、「ヒンメル達との冒険」を思い出し、前を歩く(自らを物語り、「再解釈」する)ことを可能にさせました。
 さらに、このシーンを経て、一話のヒンメルを弔う教会のシーンで、なぜ原作において(※アニメは少し異なる)アイゼンとハイターが笑っていたのか(泣いていなかったのか)、その本当の意味が視聴者にもわかります。やはりアニメと原作、両方見ていただくのがお勧めです。


唖然とするフリーレンと悲しむ大衆 『葬送のフリーレン』1巻より
悲しい顔はしないハイターとアイゼン 『葬送のフリーレン』1巻より 

 彼ら二人(アイゼン、ハイター)はこの時、ヒンメルとの冒険という「かけがえのない思い出」を思い起こしていた。そしてこれは、彼の死を悲しむことよりも、「(くだらない)かけがえのない思い出」の方がはるかに重要であること、それを彼らが心の底から理解しているからに他なりません。かつては理解できなかったヒンメルの「また会ったときに恥ずかしいからね」という発言の意味を、この時には二人はしっかりと理解しています。
 このようにフリーレンという作品は、徹底して時間をかけて理解すること(そして、その肯定)を表現しています。「いま、ここ」のかけがえのなさを伝えると同時に、「いまここで」理解できなくても、(死後であっても)いつか分かり合える、そこに"こそ"「救い」があります。その究極が作中における魂の眠る地オレオールという概念と言っていいでしょう。
 


 既に何度も言及していますが、現代がかつてないほど「対話」が重視されている時代であることは改めて言うまでもなく、私たちはこのことに疲弊しきっています。こうした「対話」することの難しさが産み出す反動が、昨今SNSでよく言われる「友敵問題」というものでしょう。
 こうした状況を打開するためにも、私たちは、現在分かり合うこと、将来いつか分かり合えること(未来)、このどちらか一方だけではなく、両者の二段構えができている状態が重要です。私たちは砂のように手から零れ落ちる「他者」という存在とともに生活すること、生きることに疲れ切っています。何よりも、私たちはそれぞれ個人として「生きること」に臆病であるし、かといって「死ぬこと(≒殺すこと)」も怖い(作中における「エルフ」という存在自体が、こうした現代人の感覚を象徴するものである、と捉えることもできそうです)。この残酷な事実を、私たちは余りにも過小評価している、と個人的には感じます。前半のnoteでも、現代人が持つある種の全能感の裏側には恐怖が潜んでいると述べましたが、私たちは、自らの性質(欠点)を、一度立ち止まって振りかえる必要があります。
 これを踏まえた上で、ではどうやって生きていくのか、そのヒントが本作にあるように思います。そして前半のnoteで書いたように、作中で示している一つの解答は、生も死も含めた私たちが「生きること」、その生命賛歌に他なりません。
 繰り返しますが、現代において私たちは「生前の」互いの理解を重視し、共に生きる方向ばかりに目が向いていますが、これは茨の道です。
 ここで『葬送のフリーレン』に話は戻りますが、本作の凄さのひとつは、現代の「価値(善い)」とされていることとは反対のことを説きながら、それにもかかわらず、圧倒的な説得力で視聴者を感動させている点です。これはフィクションだからこそなせる技であり、特有の価値といっていいでしょう。


 


 エンドロール後のCパート⑧は、「いま」に戻ります。この作品は一貫して現在に戻ってきます。それは何度も言うように、私たちが生きる「いま」が何よりも大事であるからに他なりません。⑨において、フリーレンが過去の懐かしい思い出を振り返りながら微笑み、⑩で「また会ったときに恥ずかしいからね」と言います。 
 この⑩のシーン、これは他人から意味を説明してもらうものではなく、自らで納得する事/体験する事が大事であること、そして、彼ら二人なら(フリーレン自身がそうであったように)必ず理解できる、と信頼をしているからこそ、フリーレンは二人の問いに応えず、「また会ったときに恥ずかしいからね」と言ったわけです。
 これは、パーティーというのは、時には背中を仲間にあずけることが大事である、というフリーレンの過去の冒険からの教訓でもあります(ザインに背中を託した話もありました)。かつてのフリーレンであれば、積極的に人に身を任せることはしなかったはずです。ヒンメル達との冒険を経て、アニメにおいて、積極的にザインにその身を託したように、ここではハイター、アイゼンだけでなくフリーレンもまたヒンメルの言葉の意味を理解できるようになった(成長した)ことがわかります。
 また、⑨の微笑のシーンは原作にもあるのですが、原作とは少し異なる表情です(下参照)。アニメ版の方は、真横からのアングルで前を見て歩いているフリーレンが彼女は「いま」を自らの足で確かに歩んでいることが、より強調されています。対して原作の方は、過去を思い出し、懐かしんでいることによりフォーカスが当たっている表現となっています。


 また、原作と異なる点としては、①より前の場面において、フリーレンが先陣を切って歩いていることです(原作では横並び)。ここでもフリーレンがフェルンとシュタルクを、かつてのヒンメルのように導いていることがわかります。フリーレンは幼少期から一緒に旅をしているフェルンの大事にしているもの"さえ"その意味がよくわからないほど、人間の感情の理解について鈍い部分があります。この点が顕著に出ているのは、ハイターの杖が壊れた時の「壊れたんだから、新しいの買った方がいいよ」という場面でしょう(視聴した全員が「そういうことじゃないんだよ、フリーレン!!」とツッコミを入れたはずです)。
 しかし、人の感情を理解することが苦手なフリーレンであっても、それでもパーティーのリーダーとして(実質的にリーダーと言っていいでしょう)次世代の若者を彼女なりの仕方で導くことができる。そして、そのことにフェルン、シュタルク双方が心から納得している(既に言及した2期のOP映像もその象徴でしょう)。ここに、私のような不器用な人間は感動を覚えます。
 現代では「欠点をなくすこと」、「できないことができるようになること」これらの「価値」の両立が強調されています。さらに日本では、「これができなければ、社会で生きていけないぞ!」と常にナイフで互いに脅しをかけ、村八分的な相互監視をする雰囲気がいまだに残っています(例 「今は○○の状況だから××するのは仕方ないんだ/するしかないんだ」といった構文はSNSだけでなく現実でもよく見聞きするものです)。これらがプラスに働く場面もあれば(治安の良さ)、コロナ禍のようにマイナスに働く場面(ある条件化における自粛要請の空気)もあります。また、今まさに私たち日本人の気質がマイナスに働いているからこそ、現代日本人が「生きづらさ」を感じているのでしょう。
 そして、このように互いにナイフを突きつけ合っていることの裏返しが、「AIがこれ以上発達したら、私たちの仕事がなくなってしまうのではないか?」という過剰な恐怖にも表れている気がします。
 前半のnoteでも述べましたが、私たちにはどうしようもない能力的な限界が存在します。私たちは自らの想像以上にできることもあれば、どうしようもできないこと、この両方が存在するのであり(これは、往々にして事前にはわからないものである事が多い)、後者があっても生きていけることは、もっと強調されていいでしょう。
 作中ではフリーレンという、とても不器用な存在がこの証明となっています。彼らのパーティーがそれぞれ非常にスキルの低い部分があることからも、私たちは完璧超人にならなくても大丈夫であると、ネガティブではなくポジティブに、そう受け止められる優しいメッセージを感じます。

 さらに28話のアニメにおける追加部分も、大変素晴らしいものです。こちらも詳しく見ていきましょう。


⑪服の汚れをきれいさっぱり落とす(伝説級の)魔法をもらったフェルン、
その頭をなでるフリーレン
⑫フェルンの頭をなでながら「それでこそ、私の弟子だ」と言うフリーレン
⑬それに対して驚くフェルン
⑭一度瞬きをした後に納得するフェルン

⑪において、フェルンの頭をなでるフリーレン。かつては頭をなでるのが下手だったが(力が強すぎて、皆少し痛そうであった。)、今回は全くその様子はありません。頭をなでる行為についても、彼女が確実に成長していることがわかります(笑)。
 そして、⑫はアニメオリジナルのシーン。フリーレンが「自らの意志」で積極的に弟子を育てることに喜びを見出しているシーンであり、物語当初においてハイターに「弟子は(自らより弱く)邪魔になるからとらない」と言い放った姿からは、信じられないくらいの変化です。ここからも、ヒンメルの後をただ追っているわけではなく、彼女なりのやり方、、、、、、、、で人間と関わり、生きていくことの決意が見て取れます
 しかし、なぜフェルンはここで驚きの表情を見せたのでしょう。いくつか理由が考えられると思いますが、私が思うに、それまでのフリーレンはめったにフェルンを”弟子として”ほめたことがなかったからでしょう。少なくとも本編でフェルンに対して直接、自らの弟子としてほめたことは、このシーン以外ではなかったはずです。もちろん、これはフェルン自身がどうのこうのという話ではなく(実際、フェルンの魔法の才能については当初より高く評価している)、フリーレン自身の問題です。ここでは、彼女が、自らの意志で弟子を育てることを受け入れたことを象徴するシーンとなっています。
 そしてこれは、自らよりも確実に早く死ぬ存在である「人間」であっても、彼らと関わることが、自らにとって「意義あること」の証左にもなっています。「他者」と関わること、この「価値」を、フリーレンが自らよりもはるかに短命であるヒンメル達から学んでいます。このことも、命の長さ"それ自体"が「価値」があるわけではないことを示しているでしょう。これは、寿命の長さ程度"しか"社会的に善いことである、というコンセンサスが取れなくなってしまっている現代とは大きく異なります。
 現状に対するアンチテーゼも、このような描写からも感じるところです。また、アニメ27話で顕著にでていますが、大魔法使いゼーリエの予想を超える偉業を達成したゼーリエの一番弟子であったフランメ、そして弟子たちの存在について、ゼーリエ自身が嬉しそうにフリーレンに話すシーンからも、伝わってくることです(下参照)。
 このように「命が短い」からこそできることもある。このことを、言い張るのではなく心から「肯定」する。それは、つまり自らが心の底から納得しなければ(体験しなければ)できないことです。これができなければ、結局は命の"長短"でその価値を判断することになり、「生命が尊い」などは、ただの綺麗ごとになってしまう、と個人的には感じます。


かつての弟子、フランメを語るゼーリエ『葬送のフリーレン』6巻より


人間の時代の到来を予言するゼーリエ 『葬送のフリーレン』6巻より


 このようにフリーレンという作品は、漫画の副題にあるように「生きとし、死せるもの全ての人たちへ捧ぐ。」物語であることがよくわかります。
 また、フォル爺との別れの際は、当初は10年滞在してフォル爺と話すことを望んでいたフリーレンなのに(当然だがフェルンに止められた)、余りにもあっさり別れたこと(感動的なフォル爺の言葉に対して、フリーレンは『そう』と一言だけ返している)も、彼と楽しく話した想い出の方が、別れよりも大事であることを伝えてくれます。


とても楽しそうにフォル爺と話すフリーレン『葬送のフリーレン』4巻より
フォル爺がかつてヒンメルに対して言った「記憶を未来につれていくこと」。
これを自主的に引き受けることを決意するフリーレン『葬送のフリーレン』4巻より
感動の再開(本人談)にしては、あまりにもあっさりと別れるフリーレン


 特に中段の引用は、彼女が、自らの意志で、人々の記憶を伝えることを静かに決意していることがわかるシーンです。まさに「葬送」のフリーレン(タイトル回収)。


・アニメ28話解説部分の原作表現

原作における今回紹介したシーン『葬送のフリーレン』7巻より


原作における今回紹介したシーン『葬送のフリーレン』7巻より


原作における今回紹介したシーン『葬送のフリーレン』7巻より





アニメ28話と『Anytime Anywhere』から想起した個人的な思い出


 さて、ここからが今回一番noteにしたかった内容なのですが、前段が大変長くなってしまいました。既に言及した通り、『葬送のフリーレン』は、私たち自身の過去の記憶を想起させ、過去のトラウマだけでなく「自らの物語」を「再解釈」させる力をもっています。そして、その想起された過去を後悔するわけでも、否定するわけでもない、「いまこれから」を生きるために私たちに再解釈を可能にさせる、そんなあたたかさを持った作品です。そして、このあたたかさが、押しつけがましさを感じないこと(≒私たちに解釈の余地を委ねていること)は、前半のnoteで引用したEDテーマを担当した歌手のmiletさんが鋭く指摘していた通りです。

最後に、28話を観て、私が思わず「再解釈」してしまった「個人的な体験」を語らせてください。

 その前に、『葬送のフリーレン』という作品を想起させる『Anytime Anywhere』の歌詞を少し確認しておきましょう。なぜなら、エンドロールで流れるこの曲を聴きながら、私は過去の「かけがえのない記憶」を「自らの物語」として「再解釈」することができたからです。今回は詳しく説明しませんが、このnoteで私が解説した大部分について、引用歌詞の太字の部分でほぼ全てを説明している、そういっても過言ではありません。



And you alright
Can you hear me
誰もいない線路沿いをなぞってく

大袈裟に泣いて
笑ってほしくて
鮮明でいたい思い出を抱きしめている

さよならよりずっと大切な言葉で伝えたいんだ
ありふれて でも特別で

ほら この目じゃなければ 見えなかったものがどうして?
溢れてく


だから もう一度 生まれ変わろうとも
また 私はここを選ぶんだろう

だから あなたと また巡り逢ったら
もう離さない 今を選ぶんだろう

約束なんてなくても 孤独に迷う日々でも その涙だって大丈夫、
きっと夜が明けるよ

And I'm alright (I'II be alright)
Yeah I hear you (I care about you)

伸びた髪を風がからかってる
全部意味があるよ
立ち止まった日々も
今さらわかってあなたに追いついたよ


ほら この目じゃなければ
見えなかったものがどうして?
溢れてく

だから もう一度生まれ変わろうとも
また 私はここを選ぶんだろう
だから あなたと また巡り逢ったら
もう離さない 今を選ぶんだろう

(Anytime anywhere)どこにいても
(Anytime anywhere)笑ってみせて
(Anytime anywhere)目を閉じれば いつも
(Anytime anywhere)歩き出した
(Anytime anywhere) 私を見てて

せめて 会いたいよなんて言わないから
ねえ 今日だけは思い出していいかな
だからあなたとまた巡りあったら
もう迷わない今を選ぶんだろう

約束なんてなくても
孤独に迷う日々でも
こんなに胸が痛いのはあなたといた証かな
絶対なんてなくてもいつでも届いているから
その涙だって大丈夫、きっと夜が明けるよ
I'm whispering our lullaby for you to come back home

milet『Anytime Anywhere』歌詞

 上述した⑥⑦の部分で流れる歌詞が、「ほらこの目じゃなければみえなかったものが どうして? 溢れていく」の部分にあたりますが
(この演出が、完全に視聴者の過去になくなった人を想起させる意図を持っている)、ここで見事に私の祖母のことを思い出させられました。ここからは、その一連の想い出について語っていきます。






「私」の物語



祖母との記憶、そして「私の物語」としての「再解釈」


 祖母は私が幼稚園児の頃(約25年前)にがんで亡くなったのですが、亡くなる前の数カ月間は、末期がんで治療不可能なので自宅で過ごすことになりました。そして、これは時代の限界による典型例ですが、当時主流であったように、祖母本人にはその旨は伝えられていなかったようです。患者の知る権利が当たり前の現在において、これは考えられない対応だと思いますが、わずか25年ほど前はこうした対応が当たり前だったのです。また、後ほど母に話を聞いたところ、当人が体調は一向によくならないことを理解していたので、重病であることはわかっていたのではないか、とのことですが真相は不明です。
 この余命数カ月の間、祖母がよく私の家に来て(祖母は車で40分程度離れた家に住んでいた)、私の面倒をみてくれていました。私の覚えている限り、園児時代のポジティブな記憶は、この祖母と過ごした「なんでもない時間」だけです。その他は、ひたすら幼稚園の室内でブロック遊びをしていたこと、かけっこで学年の下から3番目だったこと、お遊戯会にてカラス役でカーカー鳴いていたことくらいしかぱっと思い出せません。思い出が少ないということは、実際幼い頃の私には、喜びの体験、記憶といったものが少なかったのでしょう。
 そして祖母が亡くなり、私は父親に連れられ、亡くなった祖母が眠る病院のベッドに着いたとき、生まれて始めて「人が死ぬこと」を知りました。この時、ベッドで横たわった祖母を父の手を握りながら遠くから見ている風景だけは、今でも鮮明に思い出せます。ここは記憶があいまいなところですが、この時、父親から「人が死ぬこと」を説明され、祖母の手を握るかどうか聞かれたと思います。しかし、当時の私は祖母の手は握らなかったはずです。いや、握れなかったといった方が正確でしょう。はっきりした理由は不明ですが、恐らく、とても怖かったのだと思います。
 この体験が直接的な原因かはわかりませんが、私の奥底には今でも「恐怖」というものがある気がします。そして本作のアイゼンのように、この「恐怖」こそが、色々と考えるきっかけとなったという意味で、私を成長させてくれた気もするのですが、瞑想のような実践をしている身としては、いつかこれと向き合う時が来るのでしょう。私にできることは、坐してその時が来るのを待つのみです。
 それはさておき、祖母の死と死者の身体を目の当たりすることで、「今生でどれだけのモノを積み上げても、死というもので全てご破算になってしまう(だろう)ことを知った」私は、これ以降モラトリアム期を終えるまで、自らの人生を生きることはできませんでした。それは、以前にも書いたとおりです(※1)。
 そして、この祖母との「かけがえのない記憶」とそのトラウマを隠すように、20歳頃までこの記憶を完全に忘れていました。この20歳頃の私は、まさにちょうど「この社会で生きていく」決心がついた頃だったと思うのですが、祖母とのかけがえのない思い出の象徴であるポケモン(ウインディ)のマグネットを、たまたま実家で見つけたのです。

※1 今思えば当時(園児)の私にとっての喪失感は、米津玄師さん『lemon』で言及されているような彼の祖父に対する想と近いものだったのでしょう。
 


祖母との時間を思い出すきっかけとなったマグネット(ウインディ)



 ポケモンのマグネットを見た瞬間、このマグネット(当時私が好きだったウインディ)を祖母の家の近くのスーパーで一緒に買いに行き、その後、失くしたと焦っていたが実際は祖母のポケットの中にあったこと、さらに、祖母が取り出した際に便器の中に落としてしまったこと、そして、便器からマグネットをとりながら笑っていた祖母の表情(個人的には、フリーレンが想起するヒンメルの笑顔と思わず重ねてしまうものがあります)、これら一連の記憶を走馬灯のように全て想い出しました。20歳までの私は、人生において(特に幼少期)、楽しい記憶などはほとんどなかったと思っていましたが、幼き頃の私にも、確かに幸福な時間は存在していたのです(※2)。
 囲碁の黒石のように暗い原色一色に染まったネガティブな記憶として認識していたものが、白石に転ずるほどの溌溂とした輝きが伴うようなこの喜び、その感覚は、何物にも代えがたいものがあります。
 
 これで全てが万事解決かと思いましたが、実はそうではなかった、というのがアニメ28話を観て気づいたことになります。なぜなら、この時の私は故郷を含む「私の物語」を「再解釈」できていなかったからです。


※2 アニメ27話において、迷子になった幼少期のヒンメルに「花畑の魔法」を使うフリーレンその表情は、フランメとの過去の出来事を「かけがえのない思い出」
として想起しているように見えます。この時のフリーレンはまだ、この「花畑の魔法」がフランメとのかけがえのない思い出であることに自覚できていません。




 
 
 ここまでは『葬送のフリーレン』の28話を観る前の話です。このEDクレジットを観ていたところ、改めてこの記憶を振り返る中で私の中に「再解釈」が起こりました。本作がそういうきっかけをくれたのです。恐るべきアニメ28話、と言うしかありません。
 既に書いたように、アニメオリジナルのEDクレジットで墓石を映すシーンは、確実に視聴者自身の固有の体験を誘発すること(=死者を想起させる)を狙ってのものであり、それにまんまとハマったのが、私ということです(笑)。


 続けます。私の実家は、中部地方の郊外のベットタウンにあるのですが、そこには、戦国時代の輝かしい歴史が残っていながら、そういった歴史を大事にすることはない残念な風土があります(例:織田信長に関連する場所もあったりするが、そうした部分は一切強調されていない)。
 私の故郷は土地の安さと利便性の良さ(名古屋まで比較的近い)から、人口だけは微増し続けているのですが、その結果が町の歴史が断絶されたスーパー銭湯を観光名所として売り出すような資本主義のイデオロギーにどっぷりと染まっている現状になります。過疎化が進むだろう田舎において、現状のような方針で売り出していくことは、町が生き残っていくためには仕方がないことはよくわかりますが、実際、歴史的に意義がある場所が雑木林のようになっている状況を踏まえると、なんとも言えないお気持ちにはなります。
 このように町としての歴史と現在が断絶しており、都会にもなりきれず、田舎の良さも全くない中途半端な町、それが私の故郷です(もちろん、これは私の目から見た話で実際は、そうでもないのかもしれません)。そんなものだから、故郷の話になった時には、私は人に「私は根無し草なんですよ。故郷がないから、同じ場所に定住することがないんです。」とよく語っていたものです。実際、大学進学時にはすぐに実家を出ました。「こんな町など一刻も早く抜け出したい!!」という強烈な思いがあったことは、よく覚えています。
 しかし今回改めて祖母との記憶を振り返る中で、すぐに息子の物を捨てる母親(私の世代までの母親とは、そういう人が多かったでしょう)が、ポケモンの汚いマグネット(当時の時点で15年程度経っている)を保管していた理由にふと気づきました。それは、当時の母は私がこのマグネットを大切にしていたことを知っていたからに違いなく、これを保管していたのが母であったこと(母の実家の近くに私の実家もある)、さらにはそのマグネットが祖母との記憶を思い出させる外部記憶装置トリガーになったこと、そして何よりも祖母と過ごしたのは私が嫌いな故郷だったこと、これら全てが繋がった気がしました(「私の物語」の「再解釈」)
 つまり、私の「故郷」の物語としては、これで充分である(=受け入れてもいい)と心から納得できたということです。そしてこの時、「そうか、意外にも私にも「故郷」というものを求める欲が存在していたのだな」ということにも、はじめて自覚できました。
 自らの知らなかった側面を知ることは、それがポジティブなものに限らなくとも、いくつになっても、独特の喜びの感覚があります。だいたい人は20歳くらいにもなれば、自らのことなど大方はわかった気になっているものですが、実は自らのことさえ、意外とまだまだ知らないことばかりである、、、、、、、、、、、、、、、、ことは、年を取ることの大きな「価値」のひとつでしょう。


 残念ながら、今では母は、ポケモンのマグネットを保管していた理由を完全に忘れています。祖母の話になった際に、何度この思い出を説明しても、「あんたが小さい頃におばあちゃんは亡くなったからほとんど覚えてないでしょう」と全く聞き耳さえ持ちません。
 しかし、そんなことはもはや私にとっては、私の物語の「再解釈」がもたらしたものに比べれば、とるに足らないものです。当時の母がマグネットを保管していたからこそ、私は祖母との「(今となっては)かけがえのない思い出」として、当時の出来事を20歳の時に思い出すことができた。さらに、これは私がかつて心から嫌悪し、軽蔑し、その存在を受け入れられないでいた「故郷」という場所での思い出であり、この汚いマグネット"こそ"が祖母から母、そして私へとつなぐものでした(「私の物語」の「再解釈」)
 これは私が生まれ故郷を受け入れるために、まさに必要なプロセスであったと、そう「再解釈」しました。この時の喜びは、これまで「故郷」を受け入れられなかった期間の後悔などを優に超えてくるものです。ファンの方には怒られるかもしれませんが、既に述べた『薬屋のひとりごと』24話における羅漢が鳳仙と「いま、ここで」碁ができる喜びを、心から噛みしめている場面と同じ種類の感動でしょう。
 例えが分かりづらかったかもしれません。ここで述べてきた「私の物語」の「再解釈」とは、今なお残り続けていた過去の強烈な後悔(=トラウマ)さえも、いまここで「再解釈」する上で必要なものであった、と塗り替えられるほどの強度を持つ物語、そう言っていいでしょう。
 念のために付言すると、これはもちろん「故郷」という存在のすべてを受け入れる、ということではありません。
 よりわかりやすく具体的に、こう言い換えてもいいでしょう。過去から現在までパッケージされた「私」とその「物語」を紡ぐにあたって、この生まれ「故郷」でなければならなかった、という運命として受け入れた(「私の物語」の「再解釈」の具体例)ということです。
 かつての20歳の私は、祖母とのかけがえのない出来事を思い出しただけ、、、、、、で止まってしまっていました。何度でも繰り返しますが、これは「私」の存在を「物語」として紡ぐうえで、絶対的に避けられない必要な過程でもあります。過去の出来事を「再解釈」し、その後に他ならぬ「私」自身の手によって、過去から現在までを紡ぐ「私」の物語を「再解釈」する必要(私の例でいえば、「祖母との思い出」、この出来事をきっかけにし、「私の物語」に「祖母との思い出」と「故郷」を適切に位置づけること)がありますが、これができていなかったのです。
 このような私の「再解釈」について、本作に結び付けて語れば、アニメ27話におけるフリーレンの「再解釈」と同じものでしょう。
 師匠であるフランメが一番好きな魔法が「花畑を出す魔法」であること、そして、気まぐれでこの魔法を迷子のヒンメル少年にみせたかつてのフリーレン、その魔法をみたことによってフリーレンとパーティーを組むことを決意したヒンメル、この一連の出来事すべてが「偶然であった」とアニメ27話でも言われているように、実際はただの「偶然」でしょう。現代の私たちの素朴な感覚から言えば、これは偶然以外の何ものでもないように感じます。
 特定の宗教を信仰していない現在の私にとって、仮に「運命」というものがあるのだとしたら、過去から現在までの「私」というパッケージされた「物語」から遡行して過去を振り返った時、今の「私」が存在するうえでこれは避けては通れなかった、つまり、必要であったと、そう後から解釈するしかない(考えるしかない)出来事のことを「運命」とみなしています。したがって、わたしにとって「運命」という言葉は、ポジティブな側面を持つ概念になります。
 そして、まさに私の祖母と母と故郷の出来事は、私が生まれ故郷を受け入れるうえで必要な一連の出来事であり、私にとって「運命」であった、今では心からそう思います。
 もちろんここで述べた一連の話は、私の個人的な世界観の話ですが、目の前の現実を生きるためにこそ、私たち自身で自らの「物語」(=パッケージされた「私」という存在)を紡いでいくこと(=再解釈)は、意義あるものだと、心からそう信じています。

 各人にとって、パッケージされた「私」という存在を紡ぐ上で、核となる出来事は千差万別、様々あることでしょう。私にとってそれは、祖母との出来事でした。そして、私にとっては、この出来事があったからこそ、「私の物語」の中に「故郷」の存在を紡ぐこと(≒自分なりに消化すること、マッピングすること)ができました。また、私にとって生まれ「故郷」を受け入れるうえだけでなく、むしろ「私」という「人格」が形成されるうえでの全ての始まりであったと言ってもいい祖母との「(今となっては)かけがえのない思い出」は、私が「いまこれから」を歩むために、いつ思い出してもいいことも、『葬送のフリーレン』という作品からもらった大きな力です。積み上げたものが全て消え去ってしまう(であろう)究極の理不尽である「死」も、「死」そのものに対する根源的な恐怖も、何でもないような「日常」の価値(存在神秘)も、その全てはここから始まったと感じてしまうほどの大きな体験(もちろん、これは錯覚かもしれません)に対し、その光の部分にスポットライトを当てる「勇気」を、このアニメ28話が私にもたらしてくれました。
 これまで長々と語ってきましたが、本作の魅力を一言で表すとするならば、「生きる勇気」を与える力をもつ、これに尽きるでしょう。

私が述べてきたこれまでの話を痛感させる場面を、以下に抜粋しておきます。

ーーーーーアニメ組は、微妙ネタバレ注意(個人の責任で原作からの引用を閲覧ください※決定的なネタバレではありません)ーーーーーーー


⑮かつての苦難に満ちた人生と、その中でも「嘘偽りない思い出」を再解釈するデンケン
『葬送のフリーレン』9巻より
⑯ ⑮の後にフリーレンが思い出す、ヒンメルとの記憶の「再解釈」について
かつてヒンメルに花畑の魔法をした際(上段)に、フリーレンが幸せであったことがより強調されている。このように本作は本当に芸が細かい
『葬送のフリーレン』9巻より
⑰ ⑯のシーンの続き
私たちは「過去の出来事」をその良い側面にスポットライトを当てるだけでいい
そのことを「受け止める」勇気を持てるようになったフリーレン
『葬送のフリーレン』9巻より


 この『黄金郷のマハト編』では、七崩賢のマハトに注目が集まると思うのですが(私もそうでした)、デンケンというキャラクターも注目に値するでしょう。彼がなぜ一級魔法使い選抜試験編であそこまで合格することにしがみついたのか、その理由が全て明らかになります(ネタバレになるのでこれ以上言及しません)。そして、どれだけ年をとっても、私たちはまだやりなおせる(「今これから」を生きる)、という本作の温かいメッセージ(生命賛歌)がここにも徹底されています。今からアニメ化がとても楽しみです。


まとめ

 

 ここまで読んでくださった方には、『葬送のフリーレン』という作品が、いかに素晴らしいかは十分に伝わったことでしょう(そう信じたいものです)。本作の白眉な点は、私たち自身の中にある過去のトラウマを、もう一度ネガティブな要素を省いた状態で想起させ、そして、想起された出来事について「私」の物語を紡ぐ機会を与えてくれることにあります。
 タイムマシンの発明には、どうやらまだ少し時間がかかりそうです。現時点ではまだ、私たちは「過去それ自体」を変えることはできません。また、何よりも「過去それ自体」を変えることは、過去から現在までパッケージされた「私」の生を紡ぐことを難しくさせます。何も難しい話ではなく、私たちが「物語」を紡ぐためには、出来事それ自体について固定することが必要になります。当たり前ですが、哲学的に言えば「物語る」という行為(言葉)の中に、固定された出来事があることがすでに含意されています。
 しかし、注意しなければならないのは、ひとたび「過去それ自体」の改変が可能になれば、私たちは「私」の物語を紡ぐことではなく、「過去それ自体」を変えることに注力する可能性が高くなります。この未来(誰もが自らの未来を変えるため、過去を変えることに奔走すること)は誰でも容易に想像ができます。
 なぜここで私が「過去それ自体」を変える方向を避けたいのかと言えば、私たちは過去から現在にいたるまでの「私」の行為者として、そのまなざしから逃れることはできないからです。
 大前提として、もちろん、辛ければ何度だって逃げてもいいのですが、特殊な事情がない限り、いつかどこかで「自らの物語」と向き合わなければなりません。これまで再三述べた通り、私たちは自らの手で「私」の物語を紡ぐ必要があります。これこそが、ここまで述べてきた「再解釈」という行為が必要になる理由であり、それと同時に私たちにとっての大きな「価値」にもなるものです。
 終わりなき運動になるだろう「過去それ自体」の改変ではなく、それを受け止めた上で、いまこれからを生きるにあたって、どのように過去から現在までのパッケージされた「私」を「再解釈」する(=物語る)のか、この「価値」について、キャラクターと作中の世界観でもって表現しているのが『葬送のフリーレン』という作品の特徴でしょう。
 過去改変を繰り返すような人生を進めていくことに終わりが見えないことは、ここまで読んでくださった方ならば同意いただけるはずです。繰り返しますが、この社会で生きていく上で、私たちは、過去から現在(ここに、これから先の「未来」を含んでもいいかもしれません)までの「私」という存在として、常に社会からのまなざしを現在進行形で受け続けており、私たち自身もこうした「私」という物語の枠組みから逃れることは、現実的にほとんど不可能です。であるならば、そうした「私」という存在として、どうやって自らを構築していくのか(≒肯定していくのか)、これまでの表現で言えば、どう過去から現在の「私」を物語る(=綴る)のか、誰もが真剣に考えた方がいいでしょう。というよりも、ほぼ全ての人が、自覚の有無はさておき、既にこの枠組みの中で思推し、行動しているわけです。
 今回のnote(下)で伝えたかったことのひとつは、この枠組み(過去から現在までのパッケージされた存在としての「私」、とその物語)の中から逃れられないのならば、この状況を最大限利用することがベストだろう、ということです。したがって、マクロにおいては私たちが自らの手で「物語」という虚構を紡ぐことができ(「物語」の「再解釈」)、ミクロにおいては個々の出来事の「価値」を私たちなりの仕方で付与することができる(「出来事」の「再解釈」)、この二つの行為はいかに価値があることか、このことが伝わったのならば、これ以上の喜びはありません。
 私の拙い文章でどれほどの人に今回の内容が届けられたかは、いささか自信がありませんが、私の個人的な過去の出来事をする機会、さらにはそこからその出来事を「私」の物語にマッピングするきっかけも与えてくれた本作には、感謝するばかりです。もちろんこれは私だけの問題ではなく、『葬送のフリーレン』という作品は、多くの人にとっても生きていく上で問題になるであろう過去の出来事の「再解釈」、そして、過去から現在までのパッケージされた存在としての「私」の物語を紡ぐにあたって一助となる一歩を踏み出す勇気を与えてくれるものです。
 

 まとめでは、私の問題意識に関連した抽象的な話が続きました。しかし要点はシンプルです。『葬送のフリーレン』という作品を一言で評価すれば、それは「生きる勇気」を与えてくれる作品、これにつきるでしょう。
 また、生きることに臆病であり、かといって死ぬことも怖い私たちが、それでも前に進む「勇気」、それはヒンメル達の冒険から始まってフェルン、シュタルクら次世代と冒険をするフリーレンへと受け継がれてきたものであり、この「一連の物語」それ自体が、私だけでなく、全ての人たちにとって「生きるエール」となることを祈るばかりです。  
 今回は、過去、そして過去から現在までを紡ぐ話ばかりをしてきましたが、実は、私たちが未来について考えるためにこそ、過去から現在までのパッケージされた存在としての「私」の物語を「再解釈」することが必要である、という私の霊感を持って締めの言葉とします(こちらについては機会があればまた文章にします)。



 

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