私の出逢った日本語を話すチェコの女たち〜LOLOのチェコ編⑱
「現役時代、オリンピックも含めて数々の国際大会に出ました。だけども東京オリンピックが一番心に残っています。いい思い出しかありません。人々はみんな親切で、私は日本が大好きです」
大きな瞳でしっかりと私の顔を見て、そのように言い放ったのは『東京オリンピックの名花』の異名を持ったというベラ・チャスラフスカさんでした。
チャスラフスカさんに私がお目にかかったのは1998年。一時帰国するために、プラハの繁華街にある日本のお土産を買おうとボヘミアンガラスの店に寄った時でした。
そこのガラス屋では日本人客を誘致したいということで、日本で有名なチャスラフスカさんの顔写真や日本語メッセージを、店看板やブローシャーに載せていました。
なのでお客さんは一見、チャスラフスカさん自身が店のオーナーだと勘違いしてしまうほどで、それが経営者側の狙いだったのでしょう。
しかし1964年の東京オリンピックの時にはまだ生まれてもいなかった(親もまだ結婚していない)私はチャスラフスカさんが誰か全然知らないので、彼女の顔写真を見ても
「だれ?」
店に入ると中は広く、店内の至る箇所には買い物案内の日本語の
張り紙もあり、チェコ人店員たちも全員が片言の日本語を話しました。
この頃はチェコに限らず、どこの国の土産店に行っても必ず日本語で挨拶をされたものです。
プラハのそのボヘミアンガラス土産物屋の建物は高い天井で、大きなアーチ型出窓、そしてかかっていたBGMはイタリア人の全盲テノール歌手アンドレア・ボチェッリのアルバムでした。
チェコでもアンドレア・ボチェッリが人気で、至る所でよく流れていました。
店内を見て回っていると
「ひとりでゆっくり見て買い物を考えたいので、アシストは結構です」
と断っているのに、店にそのように指示されているからだと思いますが、顔が青白いチェコ人店員がずっとついてきました。
それなのに、べったりそばにいるわりにはセールストークが全くダメ。下手過ぎます。だから真横につかれても、気まずいだけ。
そもそも店に入るやいなや
「外貨はドイツマルク、アメリカンドル、日本円がツカエマス。クレジットカードはダイナース以外ツカエマス」。
オイオイ、まだ商品を見る前にそのアナウンスはだめでしょ、早すぎます。
それにしてもマルクとドルと円は当時はチェコでも三大最強外貨でしたが、それはともかく、ぴったりひっついている青白店員君は私がグラスセットを何か見るたびに、いちいち手持ちの電卓で
「それはニホン円で〇円デス」と換算、、。
鬱陶しいのですが、私は既に何軒かのボヘミアンガラスの店を回っており、どこも置いてある商品も値段も同じで、店員の接客態度も同じように”鬱陶”しい。
「もう面倒くさい。ここで買っちゃおうかな」
でもその前に
「ちょっとお化粧室に行きたいのですが、どこですか?」
青白君は重厚な廊下に一緒に出て、どこに化粧室があるのか教えてくれました。しかしまあ見事な建物で、このような土産屋になる以前は何だったのでしょう。気になりました。
チェコが良かったことの一つは、化粧室がどこも綺麗で可愛いことでした。
まだまだ日本の化粧室は暗くて、おしゃれにしているところは少なかったので、こういうのはやはりヨーロッパなんだなあと感心しました。
化粧室で手を洗っていると、扉が開きました。何気に目をやると小柄な中高年のチェコ人女性が入って来ました。その女性は少し驚いた顔をしじいっと私を見つめてきました。
「何だろう?」
と思いましたが、その女性は私に近寄り
「こんにちは」
と日本語で声をかけてきて、その後も流暢な日本語を口にしてきました。
この女性が1964年の東京オリンピックで大スターだったという「東京オリンピックの名花」と呼ばれた体操の女王のベラ・チャスラフスカでした。
§
ところで、この少し前のこと。
私は日本語を話すチェコ人ファミリーに出会いました。
きっかけは、撮影の仕事で出会ったチェコ人の(確か)舞台演出家ヒューゴ氏(仮名)が日本語べらべらだったので、びっくりすると
「ぼくは東京で育っています。でも兄と母はもっと日本語が上手です。紹介しましょう」
と言ってきてくれたのがきっかけでした。
その週末、彼のお兄さんのミロシュ(仮名)がマツダの車で迎えに来てくれ、両親の家まで私を連れて行ってくれました。
後部席には存在感が全くないひょろっとした息子が乗っていました。大学生だそうですが、漢文を読んでいるのにびっくりしました。北京語が専攻なのだと。
舞台演出家のヒューゴ氏のいうとおり、兄のミロシュ氏はかなり日本語が上手で、おそらく私が出会った日本語を話す外国人の中で断トツナンバーワンです。
そもそも、車中でいきなり「露助の野郎め」「ナチ公」
とロシアとドイツ人悪口をべらんぼう口調の日本語でまくしたてました。
さらに別居妻の妻の悪口と「二号さん」(本当に二号さんと言った!)の愛人女性の話もべらべら淀みなく、完璧な日本語で話し始めました。
「どうしてそんなに話せるのですか?」
「10歳ごろから18歳まで東京に住んでいたからですよ。年齢がちょうど良かった。外国語を学び始めるのは遅くとも12歳までですからね。
もちろん最初は何言っているか分からなかったけれども、テレビを朝から晩まで見て最初の三カ月でだいたいマスターしました。日本は発音は簡単なので聞き取りはしやすいですしね。問題は、特殊な日本語読み書きだな」
ミロシュ氏の両親の家に到着すると、元駐日本のチェコスロバキア大使こと父親がちょうど庭で長いホースの水撒きをしていました。プラハの高級住宅街の大きな家で庭も立派です。
父親は私の顔を見るやいなや、自己紹介をすっ飛ばしていきなり日本語で庭の花の「剪定」について語りだしました。唖然です。
中に通されると日本と中国の美術品コレクションが素晴らしく、それに膨大な本の数で、あとで思えば夫婦共々インテリだとそれだけ本の所有数もえらいことになるのでしょう。
「”おふくろ”はかなりのエリート」
と車の中でミロシュ氏に聞かされていたので、元大使夫人に会うのに緊張しました。
ところが凄い学歴経歴だという母親は小柄で可愛いタイプで、お花の刺繍エプロン姿でお手伝いさんと台所で、楽しそうに食事の支度をしていました。
母親も父親同様、初対面の私を見ても何も挨拶がなく、唐突に
「食後のデザートは〇〇と〇〇どちらがいいですか?」
長年大使夫婦をやっていると、死ぬほど初対面の上辺だけの挨拶をしてきただろうから、もうそういうのはどうでもいいのでしょう。あと一応息子が連れてきた若い日本人ということで、堅苦しいことは一切省こうとしてくれたのだと思います。
家の中を全部案内してもらい、その後テラス席へ通されました。
ここで空気を感じ素晴らしい緑の庭を眺め、鳥のさえずりを聞きながら太陽を浴びて食事を楽しむのだとかで、寒い時期以外は食事はなるべくテラスで取るのだといいます。
「昔の日本人が縁側で庭の紫陽花を眺め、風鈴やセミの鳴き声を聞きながら、スイカを食べるようなものです」
とミロシュ氏。
しばらくすると次男の舞台演出家ヒューゴ氏(この時は離婚してシングル)と、長男のミロシュの「別居中の」妻と、夫婦の娘も現れました。
改めてこの一家のメンバーを紹介すると、
元駐日本のチェコスロバキア大使老夫妻、
二人の40代の息子のミロシュ(通訳)とヒューゴ(舞台演出家)。
そのミロシュの別居中の妻と、この二人の大学生の息子と娘。この顔ぶれです。さしずめチェコ版渡鬼一家です。
それにしてもです。慣れているのでしょう、全員感じが良く「ウェルカム」という感じで普通のチェコ人とはああ違う。
ミロシュ一家は息子は父親と暮らし、18になる娘は母親と暮らしていたので、ミロシュ氏が娘に会ったのは久しぶりでした。
父娘が不仲というわけではないからといって、びっくりしました。この父娘はいきなり唇と唇のキスをしたのです。しかもブチュー大きな音も立てた派手な口づけです。
各国の様々な挨拶や風習を見てきた私でも、この目の前の接吻には度肝を抜かれました。
さらにです。娘が席を外すとミロシュ氏は
「昔、娘の部屋の机の引き出しから日記帳を発見してね、こっそり読んだらボーイフレンドとの初体験のことが赤裸々に書いてあってショックだったなあ」
「え?それを全部読んだんですか?」
氏はにやにやし
「ローローさんがいたエジプトなら、父親は娘を殺害したでしょうがここは文明の進んだヨーロッパなので、そういう惨事には至りませんでした」
いや、そこじゃないだろと思いましたが、氏は離婚協議中の妻とは笑顔で頬のキスを交わしました。行きの車の中では散々妻のことを罵っていたのに、実際はほのぼのして仲良さそうにすら見えます。
だから私はもじもじし、最初に声をかけてくれたヒューゴ氏に
「あの今更ですけど、他人の私が混ざってもいいのでしょうか?」
すると、彼はニヤッとしウィンクをしてきました。チェコの男性も割とウィンクをするので
「共産時代から?まさかなあ」
と以前会社の人に尋ねました。
アメリカドラマ映画の影響だといいます。
民主化後、一気にアメリカ作品がテレビでタレ流しされるようになり、クリント・イーストウッドもロバート・レッドフォード、トム・クルーズもみんなウィンクしていると。
弟の演出家はウィンクして
「一見仲良さそうな和気あいあい家族に見えるけれど、実はギズギズしているんだ。
兄夫婦は憎しみあって離婚で揉めているし、兄の子供二人も兄妹仲が悪いし、僕と兄も子ども時代から関係が良くないのさ」
「理想的な一家に見えますけど」
「外交官一家だからね、ははは。とにかく部外者がいてくれたほうがいいし、久しぶりの日本人のゲストで両親はああ見えても喜んでいるんだ」
また、徐々になんとなく分かりましたが、全員日本語を話せたものの、元大使とヒューゴ、そしてミロシュ長男の大学生の息子は北京語が得意で、大使夫人とミロシュと別居中の妻は日本語が得意でした。ミロシュの娘は北京語はまるでだめで、日本語は初級レベルを話しました。
だから昔から次男は長男の悪口を大使の父親に告げ口する時は、兄にわからないように北京語で、逆に長男は次男の愚痴を日本語で母親に告げていたと。ややこしいチェコ人一家です。
今回はゲストの私に合わせて食卓の会話が日本語でした。
これは気持ち良かった。チェコに来て以来、何度かホームパーティにお呼ばれがあったものの、いつもチェコ語ができない自分だけ疎外感がありました。チェコに来て以来初めてのストレスフリーです。
§
元大使のお父さんの専門は北京語の方だと言いましたが、それでも十分日本語を話せていました。現役時代は情報省の官僚で、北京と東京両方にチェコスロバキア大使として赴任していたといいます。
この話を某日本人外交官に話すと
「共産時代の北京の大使館に大使として赴任していたなら、相当な大物だったのに間違いない」
とやたら感心しました。
いやいやその前に、北京語日本語を操る情報省の偉い官僚が大使として、長いこと東京にも住んでいた、、、その裏を深読みしたら?と私は思いましたが、それはさておき、ミロシュとヒューゴの母親である大使夫人は日本の文化や歴史の研究者でした。
なので北京語を話したけれども、彼女の場合は日本語の方が専門で、それは百パーセントネイティブに私は感じました。
びっくりたまげたのは江戸弁にも長けていたことです。元々日本語を学んだ時に古文や俳句、短歌なども学び、その流れとして江戸弁も勉強し、夫が東京に赴任した時には落語の寄席に通いつめ、落語を研究したのだといいます。
実際、夫人ははっきりと
「日本の落語が大好き」
と生き生きと落語のあれこれについて語りました。ちなみに、彼女の若い時はかなりの美人だったに違いありません。間違いなく東京の寄席でも客席で目立っていたことでしょう。
ミロシュ氏は東京に住んでいた時に柔道道場に通った話や、日本の普通の中高で学んだので修学旅行の思い出なども話しました。
「次男のヒューゴはそうでもなかったけれども、あの子は日本に同化しようとして一生懸命頑張っていた」
と大使夫人。
しかしそのせいで本人曰く「文化の混乱」が生まれてしまったそうで、大事な思春期の時期に日本人のように生きていた。でも日本ではずっと「外人」だった。決して日本人にはなれない。
18でチェコスロバキアに戻ると、見た目はチェコ人なのに中身がそうではない、日本人であるためこちらの社会から浮いた。
またチェコスロバキアの教育を受けなかったので、流暢にチェコ語を操るけれども、他の学生より読み書きが苦手になってしまい、カレル大学では大いに苦労した。
「日本かチェコのどちらかが、アメリカやカナダなら良かった。しかし、あいにく日本もチェコもどちらとも他の民族を受け入れない排他的な文化なので、自分のような人間はどちらの国にも本当の意味で属することができないんだ」
帰り、私を送ってくれる車の中でこう語りました。
ところで、離婚協議中だという彼の奥さんは日本語の観光ガイドをしていると話しました。
もとも18歳で学生結婚し、一切働いたことがなく専業主婦でやってきたのだそうですが、40近くの年齢になった時に、なんでも夫のミロシュ氏が
「日本語を教えてやるから身につけろ。この国が民主化するのは時間の問題だ。民主化すれば日本人ツアーがどっと入ってくる。しかし日本語を話すチェコ人は少ないので、仕事が一気に回ってくるだろう。つまり稼げる」
と日本語の個人レッスンをしてくれたのだそうです。
夫婦の間でよく個人授業が成立したものです。普通は喧嘩して上手くいかないものなのに。
私がそれを口にすると
「だから今離婚協議中なんだよ」
あっ…。
決して流暢な日本語ではないものの、彼女の話す日本語は山の手言葉でした。
その理由はチェコ大使の息子だった夫ミロシュが東京の山の手に住んでおり、近所の山の手の奥さんたちと会話をしていたため、
「女言葉の日本語とはこういうもの」
というわけで山の手言葉を身につけていたからです。
最近の日本の映画やドラマ作品では山の手言葉が間違っていますから、このチェコ人の彼女に指導してもらえばいいのに、と私は本気で思います。
国が民主化されると、本当に日本人ツアーが沢山来た、そして案の定日本語ガイドが足りなくなった。
そこできれいな山の手奥様日本語だけども、べらべらではないミロシュ氏の奥さんにもわんさか日本人ツアーのガイドの仕事が回って来たそうです。
するとです。日本人はボヘミアンガラスのシャンデリアやグラス、それにガーネットのアクセサリーなど必ずわんさか買いましたから、彼女は一気に稼げるようになりました。
なおチェコではエジプトのように店がマージンの金額をごまかすだとか、運転手と分け前を揉めるなど全くなくて、やはりそのあたりは洗練されていました。
ちなみにミロシュ奥さんは日本人ツアーをお土産店に連れて行くようになって、あることに気が付いたと話しました。
「東京ツアーの女性たちは小さな控え目なガーネットを買うのに、大阪ツアーの女性たちはごっついてんとう虫やカエル、トンボのガーネットのブローチや指輪を買う。好みが全然違う」
いやあ仰るとおりで、
「大阪の中高生女性は虫好きが多い」
と私もとうに気づいていたので(*当時です)
「そうそう!」とクック笑いました。
とにかくミロシュの奥さんは日本語ガイドになり収入を得るとすぐに、家を出たのだそうです。夫を捨てたのです。
「俺が日本語を教えてやったら、それで自活できるようになり俺を捨てやがった」
氏はウオッカを一気飲みして吐き捨てるように言いました。露助と呼びロシア嫌いの割には、ずっとロシア産ウオッカを浴びるように飲んでおりウオッカ5,6杯目で先程までの紳士の顔が破られた!
場はしいんとしました。ヒューゴ氏は兄を睨みつけ、息子と娘はうつむき、父親の元大使は深いため息。
そして奥さんはこわばった顔ですが、黙っています。きっといつものことなのでしょう。ああこれがこの一家の実像なのか…。
気まずい雰囲気になると、ミロシュとヒューゴの母親が気を利かせ話題を変えました。流石、元大使夫人です、タイミングが完璧でした。
「ローローさん、ミロシュの妻も中東に住んでいたのですよ」
意外です、驚きました。なぜ中東にいたのかと言えば、父親が駐ベイルートのチェコスロバキア大使だったからだそうです。
なるほどつまり、それぞれ異国で育った大使の子ども同士が18歳で大学で出逢い結婚したわけか…。それなのにああ離婚…。
そして離婚協議中なのに、夫の両親の家で和気あいあい一緒に食卓を囲む…。でも時間の経過とお酒が進むにつれて…。
その奥さんが言いました。
「パレスチナに訪れた時、わたくしはまだ16歳でしたけれども、アラブ人に30頭の白いラクダを贈られましたの。求婚でしたのよ」
「白いラクダ30頭?」
唖然です。私は普通のラクダ30頭(20頭だったかも)をあげると言われたことはありますが、白ラクダはあっちでも聞いたことがありません。
食後にコーヒーとデザートを出された時でした。
「他にも日本と縁が深いチェコ人はいるのですか?」
何気に私が尋ねました。
すると一斉にこの一家は答えました。
「ベラ・チャスラフスカ」
§
この数週間後でした。
私が日本に一時帰国することになったので、親へのお土産にボヘミアングラスのワイングラスセットでも買おうと、繁華街のお土産店に寄り、そこの化粧室を借りました。
見知らぬ中高年のチェコ人女性に唐突に流暢な日本語で話しかけられました。あまりにも淀みない日本語だったので、私はてっきり日本語が得意なチェコ人女性なのだろうと思い、べらべら日本語で返答しました。
と、きょとんとしています。気づきました。一定の日本語の文章は丸暗記しているので、綺麗な発音とイントネーションですらすら話せるけれども、会話のキャッチボールはできない。
今度はそこに店の女性マネージャーが入って来ました。
「この女性がどなたか知っていますよね?」
とにこにこして英語で私に尋ねました。
いや知りません。
「日本語ガイドさんなのですか?」
マネージャー女性は眉間に眉をひそめ、そしてじっと私の顔を見ました。「ああそうか、まだ若いから」と思ったのかゴッホン咳払いをし気を取り直し
「1964年の東京オリンピックで大活躍をした体操選手のベラ・チャスラフスカさんなんですよ」
そういわれてもぴんときません。でも聞き覚えがある名前です。
「ああ、あの元大使一家が日本に縁が深い別のチェコ人といっていた、あのベラ・チャスラフスカさんか!」
一緒に廊下へ出ると歩調を合わせて歩きました。向こうがあまりにもフレンドリーで、離れようとされなかったからです。
「当時の東京オリンピックはいかがでしたか?」
私が尋ねると店のマネージャーがそれをチェコ語に通訳し、チャスラフスカさんはにこにこして答えました。
中年だった彼女はなんとなくやつれている感じはあったものの、背筋が伸びてしゃんとしており流石、元体操選手です。
「東京では人々がみんな親切でした。何一つ嫌なことはなかった。本当に楽しかった。(ほかのオリンピックや外国大会に出た時に比べて)東京オリンピックの時が一番心に残っていて最高の思い出です。幸せでした」
これも日本語を挟みながらチェコ語で仰いました。本心からそう言っているんだろうな、というのは分かりました。
実際に目が輝き表情が生き生きしていましたし、決して住んだことはない日本の言葉を完璧ではないものの、そこそこ話せるというのにもあっぱれです。
私は買い物を終えて重たいガラスセットの箱を抱えて店を出る時、入り口に掲げられている彼女の大きな店宣伝ポスターを改めてじいっと見ました。
「本当だ、同一人物だ」
お若い時の写真なので、全然気づきかなかったなあ…。
その後、チャスラフスカさんとは二度と再び会うことはありませんでしたが、笑顔で知っている日本語を駆使して、感じ良くしてくれたこの時のことは一生忘れられません。
§
後日、会社のチェコ人にチャスラフスカさんのことを聞いてみると、私よりも年下のスタッフたちでさえも全員彼女の名前を知っていました。
というのは伝説的な体操選手であり、ずっとソ連に刃向かう愛国主義者のレジスタント(抵抗者)としても有名だったと。
「でもね、あの人の私生活は悲惨なのよ」
スタッフのチェコ人女性がこそっと言いました。
「東京オリンピックの時に東京でデートをした同じチェコ人の陸上選手と結婚したけれども、彼女ばかりがスターだったから夫婦仲がうまくいかなくなって離婚。
その後、成長した息子が父親、つまりチャスラフスカさんの元ご主人を殺害してしまったの。これは大々的なスクープで話題を集めたから、チェコ中の人が知っている事件よ。
おかげでチャスラフスカさんは精神的に参ってしまってね、今でも情緒不安定みたい。ま、色々仕事をしたり出歩いたりはしているみたいだけどね」
驚きました。私にはずっと笑顔を絶やさず感じが良くて、日本が大好きということをいっぱい伝えてくれていたので、まさかです。
その一週間後、私は日本に一時帰国しました。重たかったボヘミアングラスセットに母親は喜びました。
そうそう、あの店の女性マネージャーはこんなことを言っていました。
「日本ではグラスや食器は5つのセットであるべきという決まりがあるのですって?素晴らしいルールじゃないの。できれば10個のセットのルールの方がなおありがたかったけどね、ほほほ」
母親はボヘミアングラスセットを光にあてて
「ああ本当にいいガラスだわ」
と笑顔で食器棚に並べだしました。
そして私が何気なく
「そういえばこのグラスを買った時、その店でベラ・チャスラフスカさんという元体操選手に会ったよ。東京オリンピックで大活躍だったらしいけど、知っている?」
そばで新聞を読んでいた父親も、食器棚でいそいそ作業をしていた母親も「えっ?」と手を止めました。
「懐かしい名前だが、知っているに決まっているじゃないか」
「そんなに人気だったの?」
「ああ、当時は日本のマスコミはチャスラフスカさんの追いかけもしていたはず。チャスラフスカさん大フィーバーだったと記憶しているよ。
もっともお父さんは当時(仕事の)現役だったから、そんなにオリンピック中継は見ていないけれど、それでもベラ・チャスラフスカの名前は知っていたねえ」
「で、サインとか一緒に写真を撮ってもらったとかしたの?」
と母親。
「ううん、握手だけは一応してもらったけれどそれだけ」
「あーあ」
母親は失望した顔を見せました。
「ガラスのグラスよりも、チャスラフスカさんのサインや写真の方が嬉しかったのに、何をやっているのかしらねえ」
ここからまさかの愚痴と説教です。チャスラフスカさんに会ったという話からこんな展開になろうとは。
§
元チェコスロバキア情報省高官僚で、中国と日本の大使でもあった夫を持つミロシュとヒューゴの母は2016年に大往生で亡くなりました。最期まで日本の落語を愛していたらしいです。
同年、彼女より18歳若いベラ・チャスラフスカさんは病気でお亡くなりになられました。二人は親交は全くなかったそうですが、日本に縁の深い二つのチェコの薔薇が同じ年に天国に召されたのです。
パリオリンピック開催中の2024年の夏。
私の母親はかつて私が贈ったチェコのボヘミアン・ワイングラスで、冷たいビールを飲みながらオリンピックの試合を一生懸命観戦しています。
そしてオリンピックで体操や新体操の競技を見る度につぶやきます。
「コマネチやチャスラフスカのように、半世紀たっても人々の心に残るスター選手は最近はなかなか出ないわよねえ。本当にあの頃の東欧の体操選手はみんな華があって綺麗だった、スターだったのよ」
それを聞かされる度に、私はプラハの土産屋の化粧室で出逢い、大物なのに向こうから近寄って声をかけてくれたチャスラフスカさんや、見事な庭のテラスで日本語で食事をした元大使一家との夕べを思い出します。
まだプラハの夏が冷房なしで快適に過ごせる、爽やかだった時代で、私にとって人生で最良の夏の一つでした。
ローローのチェコ編つづく