杉の木の贈物…ドイツ皇帝のレバント周遊「ムスリムの皆さんはドイツの友です」〜トーマス・クックシリーズ⑫
1873年、世界一周ツアーを添乗したトーマス・クックはサンフランシスコから汽船で横浜港に到着し、初めて来日しました。
その際、日本が清潔なこと、牛肉が美味しかったこと、そして
「瀬戸内海は美に対する私のすべての想像を超えた」
と書き残しました。
「私はイングランド、スコットランド、アイルランド、スイス、イタリアの湖という湖のほとんどを訪れているが、瀬戸内海はそのどれよりもすばらしく、それら全部の最も良いところだけをとって集めて一つにしたほど美しい」
トーマス・クックシリーズも残りわずかになりました。
そこで、これまでの記事の内容とは関係ないですが、トーマス・クックツアー大賞を「瀬戸内海」ということで、勝手に認定しちゃいます!
ジョン・クック墓石文字「ドイツ皇帝のエルサレム巡礼同行」
ドイツ皇帝聖地巡礼ツアーの翌年の1899年、ジョン・メイソン・クックがイギリスのウォルトン・オン・テムズの住居で亡くなりました 。まだ65歳で若かったのに。(心臓発作か何かだった?)
ジョンは父親が売り出したエジプト、パレスチナ、アメリカツアーを大きく広め、会社の看板ツアーに定着させました。そして1878 年には、外国銀行業務と両替部門拡大して利益を上げ、トラベラーズチェックの普及にも貢献しました。
しかし、ジョンの墓石に記されたのは、そういった功績では全くなく、以下の言葉でした。
「Son and Partner of Thomas Cook.
Accompanied the German Emperor to Jerusalem.
トーマス・クックの息子でありビジネスパートナーだった。そしてドイツ皇帝のエルサレム巡礼同行」
やはりドイツ皇帝の聖地ツアーを手掛け、同行までしたのは別格だったからです。
さあ1898年の10月の中東へ戻りましょう。
ドイツ皇帝、反対を押し切って中東へ旅立つ
1898年
実のところ、ドイツ帝国内ではヴィルヘルム2世のコンスタンティノープル訪問も、聖地ツアーも反対する声が多くありました。オスマン帝国と不仲のロシアを刺激したくないと、政治家たちが心配したからです。
しかしヴィルヘルムはどうしても決行したく、ちょうどいいタイミングで妹のソフィアがギリシャのコンスタンティヌス1世に嫁ぐことになっていたので、その挙式に出席するのを口実に旅支度をし、ベルリンをいそいそ出発しました。
ところで、ヴィルヘルム2世の父親はドイツ王室、母親はイギリス王室出身です。叔父はロシア王室です。そして妹はこの度ギリシャ王室に嫁ぐというわけで、これだけでも、いかにヨーロッパ各国の王室と繋がりがあるのか見て取れます。
なお、妹ソフィアはコンスタンティヌス1世に嫁いだ後、息子のジョージを出産します。その王太子は第二次大戦でギリシャを追われ、イギリスの手引でエジプトに亡命します。
イギリスはユーゴスラビア王国のペータル2世皇太子や、イタリア王国の王族など、オスマン帝国消滅そして革命や改革、第二次大戦の影響で消滅していく王国の王族たちを次々にカイロに亡命させました。
分からないでもないのが、エジプトにも王族がいた時代でしたが、エジプトの王族はヨーロッパのどの王室とも一切血縁関係がなく、しかもナチスの手に落ちていなかったので、多くの意味でちょうどいい塩梅の避難先でした。
しかし、これがエジプト最後の国王ファルークをムカムカさせました。
「なぜ国際紛争の火種の人物を次々にエジプトへ連れて来るのだ。なぜエジプトを巻き込むのだ。そもそも、カイロをなぜ王族難民村にさせるなんて、失礼だ。私には何の相談もなく、許可も得ず」
…
それは置いておき、ヴィルヘルム2世はまんまとベルリンを出たのですが、聖地巡礼の旅を終える前に、すでにドイツのマスコミはこの旅の成功を褒め称える記事を書きました。(書かせたのかもしれません)
「イスラム教徒の全世界に強烈な印象を与え、ドイツとトルコの長年にわたる友好関係をさらに強化するのに役立つだろう」 (Illustrirte Zeitung 1889 年 11 月 23 日)
エルサレムにドイツの教会を建設
1898 年 10 月 31 日
なぜヴィルヘルムがまだ暑いこの時期の旅を決行したかったのかといえば、10月31日はプロテスタントの宗教改革記念日なので、どうしてもこの日に合わせたかったからです。だからジョン・クックの進言を受け入れず、何が何でも太陽が降り注ぐ10月に出発しました。
その日、聖地エルサレムに新しく完成したネオロマネスク様式の救世主教会がヴィルヘルム 2 世によって落成され、皇帝はこのような演説を行いました。
「エルサレムから世界に光が届いたおかげで、ドイツ国民は偉大で輝かしいものになりました(...省略...)。
ほぼ2000年前と同じように、私たちの切望する希望を込めて、全世界に向けて地球の平和を訴えましょう」
エルサレムのドイツ救世主教会落成式には、世界中のすべてのプロテスタント教会の代表者が招待されました。
そのうちの一人、エルンスト・ヴェーデマン牧師の話によると、
「ドイツ帝国海軍楽隊の演奏があり、なんだかお祭り騒ぎのようだった。それに話が長すぎた」
この救世主教会を手掛け建設したのは、ベルリンのプル&ワーグナー会社ですが、この会社はヴィルヘルム2世の
「暑い時期のコンスタンティノープルの街は非常に空気が乾燥している。そこでコンスタンティノープルの人々に良質な飲料水を提供したいと思う。絶えず飲料水が流れる、ロマネスク・ビザンチン様式の噴水はどうだろうか」
という要望にも応え、ベルリンで作った噴水をコンスタンティノープルに送っています。
ドイツ帝国天幕キャンプ
ヘルツルはもちろんドイツ救世主教会のミサには出席しませんから、外でその長い、長いミサが終わるのを待ち続けました。
そして皇帝が教会から出て「ドイツ帝国天幕キャンプ」へ戻ったことを確認すると、「入場券」を握りしめ、そちらへ向かいました。
「入場券」というのは、それがないと帝国テントキャンプへの入場が許可されないからです。恐らく、事前にバーデン大公を通して入手していたのではないかと思います。
「ドイツ帝国天幕キャンプ」そのものの手配と準備をしたのは、全てトーマス・クック社です。
トーマス・クックのスタッフたちは元々テントを建てるのに慣れていました。砂漠や遺跡でテントを用意し、観光客を宿泊させるということを前々からしょっちゅうやっていたからです。
彼らは現在のエルサレムのネヴィム通りに、75個 のリビング テント、6 つの受付テント、6 つのキッチン テントを建て、その地域で最も裕福な家族から借りた豪華な家具が備え付けました。
ところで、なぜドイツ皇帝はエルサレムの街に入ったというのに、すでに高級ホテルもあるのに、わざわざテントで寝泊まりをするのでしょうか?
それは十字軍の伝統によるものです。聖都エルサレムではヴィルヘルム 2 世はもちろん、単なるホテルに滞在することができないからです。お遍路にも決まり事があるのと似ているかもしれません。
三度目のイスラエル建国訴え
ドイツ帝国天幕キャンプにも押しかけてきたヘルツルは、やっぱりドイツ皇帝による「パレスチナでのユダヤ人国家樹立を断固として支持」を取り付けたい、諦めきれません。
復唱すると、ヘルツルによってユダヤ国家が提唱されたのは1895年、そしてシオニズム運動が本格的に開始されたのは昨年の1897年でした。
のちの1908年に、日本はそれを支持する声明を出しています。これはアジア諸国でどこよりも早かったのですが、理由は大きく二つあります。
一つはシオニズム運動を支持する見返りに、イギリス政府は中国の山東を日本が支配するのを見逃すとしたためです。
二つ目は四年前の日露戦争の時、日本政府はアメリカのユダヤ人ヤコブ・シフに莫大な資金を提供されて助けられているからです。
シフが日本に手を差し伸べたのは、ロシアにおけるユダヤ人への迫害がどうにも許せなかったからです。
そこで彼はアメリカ金融歴史上で最大の2億ドルを日本に調達し送りました。これを感謝し、明治天皇は旭日章を授けています。
ヘルツルはテントの中に通され、皇帝の眼の前にすると、改めて熱弁をふるいました。ところがです。ヴィルヘルム2世はイエスともノーとも答えませんでした。
何度説得されようが、このドイツ皇帝はパレスチナにおけるユダヤ人国家をほとんど理解せず、共感もしなかったのです。つまり、またしてもヘルツルは失敗しました。
ドイツ皇帝、古代遺跡バールベックのテントで夜を過ごす
その後、ヴィルヘルム2世はエルサレムを離れ北上し、レバノンへ向かいました。伝統の決まりでは、まだ引き続き馬車で移動を続けなければならないため、列車には乗っていません。
1898年11月10日
同じオスマン帝国領のレバノンに入ると、セム信仰とローマ信仰が結びついたバールバック遺跡に立ち寄りました。
ヴィルヘルムは無類の歴史、遺跡好きなので、だから本当はエジプトにも行きたかったのです。のちに廃位され、オランダへ亡命しますが、そこでやることもなかったせいか、わりと本格的に歴史の勉強もしていたようです。
ヴィルヘルムはバールベックの巨大な遺跡に到着すると目を丸くし、大興奮しました。
「これはすごいぞ!すぐにドイツ人の考古学者を連れて来い。ガイドをさせる!」
余談ですが、規模と大きさでいえばエジプトのカルナック神殿やアブシンベル神殿に比べたら大したことはありません。しかし皇帝はエジプトには訪れていないため、だからこそこんなにもバールベック遺跡に興奮できたのだと思います。
ジョン・クックは同伴させているドラゴマン(ガイド)に案内させようとしました。ところが皇帝はそれを突っぱねました。
「ドラゴマンではなく、ドイツ人の考古学者に説明させろ」
ドイツ人考古学者も姿を現していたので、ドラゴマンとバトンタッチ。そして非常に専門的な、恐ろしく長く、途方もなく詳しい歴史と遺跡の解説が始まりました。
歴史オタクのヴィルヘルムは夢中で聞き入ったそうですが、おそらく側近たちはたまったものではなかったと思います。何しろ暑いですから…。
その夜、皇帝はそこの古代都市の真ん中に設置されたキャンプ場で短い夜を過ごしました。満天の星に輝く夜のバールベック遺跡は美しかったと思います。静かですし神秘的です。
だからなのか、よほどバールベック遺跡見学に感動した皇帝はその後、ドイツ発掘調査チームをこの地に派遣し、本格的に発掘及び調査を開始させます。
レバノン・シリアの遺跡は日本の大学チームがだいぶん以前から、ずいぶん入っている印象ですが、
遡ると実はドイツのヴィルヘルム2世が歴史と遺跡好きだった、かつバールベック遺跡に心酔したのが原点だったのかも。
オスマン帝国のハミド2世はのちに「ドイツ皇帝によるバールベック来訪記念」の白い大理石パネルを、そこのバッカス神殿の壁に貼りつけました。
その銘板にはオスマン語とドイツ語で次のように書かれています。
「オスマン皇帝スルタン・アブドゥール=ハミド2世から、
その著名な友人プロイセン国王&ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、アウグスタ・ヴィクトリア皇后へ
相互の変わらぬ 友情 とバールベック訪問を記念して。
1898年11月15日(*正確には日付は10日の誤り)」
後日談ですが、ヴィルヘルム2世の訪問から 20 年後、英国占領下の 1918 年に英国のアレンビー将軍がこのバールベック遺跡を訪問しました。
将軍はその白い大理石のパネルを見て、不愉快になります。そこですぐさま撤去と破壊を命じました。
するとこの時、同行していたレバノン人のツアーガイド、ミシェル・アルーフがびっくりし、必死に止めました。
なぜならヴィルヘルム2世は地元で愛され続けているドイツ皇帝です。なので、もしその皇帝のパネルを壊したら、まずいです。
そこでイギリス人のアレンビー将軍は完全に破壊することを控え、代わりにイギリス皇太子夫妻の名前を新たに刻むことで満足しました。このエピソードはパネルひとつで英独がどれだけ不仲だったのか、見て取れます。
なにはともあれ、レバノン人ガイドのおかげで、ヴィルヘルム2世のパネルは助かりましたが、どういうわけか数年後、いつの間にかパネルが神殿の壁から剥がされて行方不明になりました。
見つかるのはかなり経ってからで、なぜか地元のパルミラホテルに酷い状態で置かれてありました。もちろん修復はされました。
なお、バールベックのパルミラホテルでは1898年のドイツ皇帝訪問を記念した記念ポスターがいまだに飾られています。
私も宿泊した宿ですが、てっきりヴィルヘルム2世がこのホテルに泊まったのかとずっと思っており、そうではなかった、、、と知ったのはお恥ずかしながらだいぶん経ってからです。
焚き火の「イルミネーション」でドイツ皇帝を歓迎ーベイルート
翌日のかなりの早朝、数年前に開通したばかりのレバノン列車でベイルートに向かいました。やっと列車、、、ここからはもう十字軍遠征も巡礼も関係ないからだと思われます。
ベイルートの駅では、オスマン帝国のトルコ人の将軍、将校、パシャらが来ており、彼らに盛大に拍手で迎えられたヴィルヘルム2世は駅の外へ歩きました。
そこにはトーマス・クック社が用意していた馬車が待機していました。皇帝も皇后もゆっくりとした足取りでそれに乗り、そして凱旋行進を行いました。
ちなみにこのヴィルヘルム2世の旅の記録記事を読んでいると、トーマス・クック社の連携プレーの完璧さに舌を巻きます。
全ての行き先先でちゃんと馬もスタッフも待機しているなんて、びっくりです。よくぞまあ、ああいう地域で日本人並みの連携プレーができたものです。
トーマス・クック社の評価が高く、誰もがこの旅行社に手配を依頼したのも納得です。
レバノンは紀元前1000年頃からフィニキア人商人の貿易の拠点で、しかしそういう「東西の中継点」だからこそ、新バビロニア、ペルシャ、十字軍そして現在はオスマン帝国に支配され、近年ではかなりフランスの影響下に入っています。
(レバノンが完全にフランスの支配下に置かれるのは、オスマン帝国が消滅し、第一次世界大戦が終わって以降です)
しかし、ベイルートの人々は歓声と大きな拍手を持って、ドイツ帝国のヴィルヘルム2世と皇后を温かく迎えました。
中でも皇帝と皇后をもっとも感動させたのは、ベイルート市内の、特に狭い路地にあるイルミネーションでした。
なんとです。ベイルートの善良な人々は、家族や友人と一緒に大きな薪の山に火をつけ、炎のイルミネーションの演出でドイツ皇帝を歓迎したのです。決してトーマス・クック社による「仕込み」ではなく、本当に市民が思い付いた歓迎方法でした。
皇帝一行はレバノン鉄道でベイルートを離れ、ダマスカスへ向う途中にあるアレイの街に立ち寄りました。
アレイでは、色とりどりの美しい民族衣装を着た何千人もの人々が、ドイツ皇帝をひと目見たいが故に、村の前や岩棚の上に立って待ち構えていました。
彼らのほとんどはマロン派のキリスト教徒です。ムスリムではありません。そのため、女性も多く集まることができました。
村人たちはヤシの葉や花で飾った、お手製の長い花棒を振りながら、終始熱狂的な声援を送りました。
ダマスカスにて、ドイツ皇帝「ムスリムの皆さんはドイツの友人です」
村を出ると、皇帝たちは再びレバノン鉄道に戻り、ベッカー渓谷を通り、そしてザーレ近くのムアラカも通ってダマスカスまで一気に向かいました。
ダマスカスは2つの川に挟まれた肥沃な平原にあるので、紀元前2000年にはとっくに街を形成していました。この街は「東洋の真珠」とも呼ばれております。
ヴィルヘルム2世はダマスカス市内でいくつか観光をしましたが、そのうちのひとつがウマイヤド・モスクでした。
サラディン廟はそのウマイヤド・モスクの隣りにひっそりとありますが、なんとヴィルヘルム2世はここにも訪問をしました。
サラディンとは言わずと知れた十字軍からエルサレムを奪還したムスリムの英雄です。彼はこの街で亡くなったので墓がここにあるのですが、十字軍側のクリスチャンの皇帝がサラディンの墓を訪れるなど、前代未聞でセンセーショナルです。
しかし、ヴィルヘルムは十字軍の「敵」であったサラディンの墓に敬意を表し、
「私はサラディンの友人である」
と宣言し、霊廟に黄金の花輪を捧げました。
この時皇帝はサラディンの遺体が木製の棺であることに大きなショックを受け、のちに白い大理石の棺を寄贈しました。
ただしアラブ人にとってはそれはありがた迷惑でした。なぜなら、偉大なるサラディンの遺体を触って動かすのに抵抗を感じ、かといって大理石の棺を送り返すのも失礼のため、弱り果てたのです。
結局、サラディンの遺体が収まったままの木製棺の横に、贈られた大理石の空っぽの棺を並べました。苦肉の策です。
後年、ヴィルヘルム2世がサラディンの霊廟に寄贈した黄金の花輪はイギリスが奪い去り、ロンドンの戦争博物館にいきました。
ところで、ドイツ帝国とオスマン帝国は友好貿易・海運条約が1890年にはすでに締結されていましたが、1896年にスルタンのハミド2世がアルメニア人大虐殺を行いました。
それに激怒したヴィルヘルムはハミドを
「もはや注目に値しない悲惨な悪党」
と、その後関係は悪くなっていました。
でも険悪であり続けるのは、互いにとってデメリットでしかないため、一年後には仲直りをしています。
なので、今回ダマスカスでは、ヴィルヘルム2世は決して、決してハミド2世がこのほんの数年前のやらかしたアルメニア人大虐殺については一切触れず、ドイツ帝国とオスマン帝国との固い絆を再確認し強調する演説を行いました。
演説の中で、もっとも注目すべき箇所は
「スルタンと、彼をカリフ(イスラム国家の最高指導者の称号)として崇拝する、世界中に散らばる3億人のイスラム教徒の皆さんを、ドイツ皇帝(の私)が常に友人と見なしていることを改めて信じてください」
ああ、言っちゃいました…。
案の定、これは英仏ロシアの注意を大いにひきつけました。アラブの民を「友」と呼ぶとは、多くの深読みができますから。
エルサレムではシオニスト側によくも悪くも「利用」される写真を撮られ(合成写真ですが)、ダマスカスでは「ムスリムはドイツの友」発言…。ビスマルク元首相とヴィルヘルム2世は不仲だったといいますが、それも分からないでもありません。
レバント地方をヴィルヘルム2世一行が船で離れたところで、トーマス・クック社の手配は全て終わりました。一切何もミスがなく、手配漏れなど皆無でした。携帯電話どころか無線機もなかった時代にあっぱれです。
余談ですが、トーマスクック社はこの6,7ヶ月後にオスマン帝国のハミド2世にドイツ皇帝巡礼ツアーにかかった経費の追加分を請求しています。
ツアー費用は前払いで全額受け取っていたようなのですが、実際にはもっと大幅に費用がかかってしまったのでしょう。
そしてこの請求先から分かるように、ドイツ皇帝巡礼費用は全額オスマン帝国側が負担していたということです。
「世界最古の旅行会社」二代目ジョン・クックの死(1899年)
コンスタンティノープルとエルサレムでドイツ皇帝に面会した翌年です。
ヘルツルは世界シオニスト連盟の最大の支部の一つである英国シオニスト連盟を設立します。
ロンドンでは植民地担当国務長官に会い、エジプトのシナイ半島にユダヤ人入植地を作れるかどうかの可能性を話しあいをしました。
これには理由があります。ハミド2世がどうにもこうにもパレスチナの土地を譲渡する気がないので、「仮のユダヤ人国家」としてシナイ半島が候補に上がったのです。
1882年にアングロ・エジプト(イギリス支配のエジプト)が始まっており、エジプトは名目上はまだオスマン帝国領でしたが、事実上はイギリスの植民地になっていました。
よって、ヘルツルはシオニズムに理解のあるイギリスと交渉すればいいだけだ、とたかをくくったのもあります。
ところがです。詳しい背景と経緯を省略しますが、エジプト政府が黙っておらず、口を挟んできたため大いに揉めました。
ただでさえ、オスマン帝国と大英帝国の「二重支配」でうんざりしているところ、別のところから今度は自分たちの土地をよこせといきなり言われたら、そりゃ抵抗するでしょう。
結局、シナイ半島でのユダヤ建国話は流れました。そしてそれとは別に、同年、ロンドンでロスチャイルドのユダヤ植民地信託銀行が法人化されました。
そしてこの年。前述しましたがジョン・クックが死去し、ジョンの息子のアーネスト・クックが兄弟のフランク ヘンリー、トーマス アルバートと共にトーマス・クック社を継ぐことになりました。
ちなみに、1906年にトーマス・クック社横浜支店が設立されたと、以前書きましたが、アーネスト・クックは第一次世界大戦後、1920年に日本交通旅行社(JTB)と総合代理店契約を結びます。
さて、いよいよ時代は20世紀に入ります。
つづく
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