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人生の脱線事故を起こしたら

 「あの失敗があったから」という企画に参加しようと過去の失敗を思い返してみたのだが、私は慎重なおっちょこちょいだったので、数え切れないくらいの失敗を積み重ねてきた。いちいち覚えていたら身が持たないので、具体的に何をやらかしたのかは瞬時に思い出せないのだが、ひとつだけ「これは失敗だったな」と忘れられないことがある。

 それは、大学3年生の時に発症した「うつ病」である。病気を失敗の定義に入れていいものなのか悩んだが、過去に私が最も苦しんだ、そして最も価値観の変容を起こした出来事だ。

【目次】
 1. なぜ「うつ病」になったのか
   ①真面目すぎた
   ②繊細な気質
   ③家庭環境
 2. 価値観のパラダイムシフト

1. なぜ「うつ病」になったのか

 精神科医にも聞かれるし、うつ病のことをカミングアウトすると大抵聞かれるのだが「うつ病になった原因はなんですか?」という質問に答えられる患者などいるのだろうか。

 自分を追い詰め、何に縛られていたせいでうつ病になったのかは、おそらく本人が一番気付きにくいことだ。むしろ自覚がなかったからこそ、うつ病になったのだと私は思う。

 当時の私は、うつ病に対する知識などなかったし、自分が精神病の患者だと言うことが長らく受け入れられずにいた。もしかすると、自分に向けられる偏見より、自分が自分に向ける偏見の方が度数が強かったかもしれない。

 初診前に自分の状況を整理した時のメモが残っているのだが、所々誤字もあるし普段書くより汚い文字が、私が囚われていた呪縛を反映しているようで、未だに捨てられずにいる。


 さて、今もなお治療中の身だが、冷静になって考えてみると原因について思い当たることがいくつかある。

①真面目すぎた

 自分で言うのもおかしな話だが、私は真面目な性格だった。几帳面で、学校でも家でもいい子を演じているような、まさに堅苦しい人間の具現化。他人に対しては融通が利くし誰かがしたミスにも寛容だが、自分に対してだけ異常に厳しかった。

 私の頭の中はいつも「ちゃんとやらなきゃ」「こうあるべきだ」「こうしないなんておかしい」で満たされていた。行動の指針が「やりたい」という純粋な欲ではなく、どこかで計算された「べき」で固められていたのだ。

 あれもこれも、完璧にやらねばならないと本気で思っていたこともある。料理本を見てご飯を作ればきっちり分量を量るし、本棚は作家の名前と刊行順、掃除も片付けもお手本のようにやって、と全ての日常を最大限努力してこなす必要があり、そうでないと自分には何の価値もないと言い聞かせていた。

 だが日常というのはどこかで手を抜くから毎日続くのであって、こんな風に起きている間ずっと全力でいたら限界が来るのは時間の問題だ。「手を抜く」「適当なところで切り上げる」という事を知らない時代の私は、どれだけ窮屈な世界に生きていたのか。

②繊細な気質

 昨今、HSPという言葉の認知が広まっているが、日本人には特に多いため「みんなそうじゃん」で片付けられがちだ。だが、この「みんなそうじゃん」が私を苦しめていた。

 私はあらゆることに敏感だった。周りの人の感情や様子を窺い、それに左右されてしまう。友だちの機嫌が悪ければ、私が何かしてしまったのだろうか、と考え込んでしまうのだが、実は徹夜して宿題をしたせいで寝不足なだけだったとか、そういうことはままある。だが誰に教わったわけでもなく、自分を責めることが習慣になっていた。そうやって安心していた部分もあるかもしれない。

 自分が普通より疲れやすい体質だと言うことにも、うつ病がきっかけで気付いた。普通に過ごしているだけでも、音や匂い、寒さや暑さなど、五感が鋭敏に働き必要以上の情報を受け取ってしまい、1日外で過ごせばそれだけでぐったりしてしまう。休日は家で好きなことをするのが常だった。

 自分と他人の境界線を張り、情報の取捨選択をする方法がわからなかったのだと思う。体力もある方だったし、実際に体力テストの成績も良かったので自分が疲れやすく、こまめに労る必要のある体質だということにすら思い当たらなかった。むしろ、休んではいけない。それだけ後れを取ってしまうと考えていた。

 そういった気質もあり、私は他人との交流が苦手だった。話し掛けられれば適度に盛り上げ笑って話をつなぐことはできるが、酷く疲れるし楽しいと思えなかった。何か困ったことがあっても他人を頼ってはいけないし、自分一人の力でやり抜くことが偉いのだと信じ切っていた。本当は、自分と相手の得意分野を把握し、分担してよりよいものを作り上げる方がいいのだが、それは許されないことだとお経のように思っていた。「助けて」といつどのタイミングで誰に言えばいいのだ、とムキになっていたこともある。

③家庭環境

 上記2つの原因の、さらにその根源にあるのは家庭環境だ。私は自分の育った環境が歪だったことに薄々気付いていながらも、うつ病になってからようやく認めることが出来た。詳しくは「成仏日記」として綴っていくので、もし興味が湧いた物好きな方は読んでみて欲しい。

 私の家族は父、母、私、妹が2人の5人で、両親は離婚調停中で別居している。家庭は常に両親の葛藤の場で、物心付いたときからいかに二人の機嫌を損ねず過ごすかを考えていた。

 父は厳格で亭主関白の見本のような人物で、「正しくあること」を無言のうちに強要してくる。学校には無遅刻無欠席で通うのが当たり前、言葉遣いや礼儀などのしつけなど、どこのお嬢様かというくらい厳しかった。反動でこの体たらくだ。

 母は、中学生くらいまで私を虐待していた。殴る蹴る、暴言、物を投げたり、捨てたり、いろんなバリエーションの虐待を受けた。今思うと、母も辛い時期だったのだろう。幸いなことに、妹たちは被害を受けずに済んだ。当時の私は「私が悪い子だから、お母さんが困ってるんだ」「もっとしっかりしなきゃ」と思い込んでいた。

 また、成績にも厳しく、テストの度に問題用紙と解答を合わせて提出して自分の足りなかった点を述べさせられた。帰ったら一番最初に宿題をやる、というルールまであった。もちろん、それは勉強においては必要なことであるが、私にとって勉強は、自分の知識のためにではなく、母を喜ばせ怒らせないようにするものになった。

 母は一度も「100点を取れ」「1位になれ」「もっと勉強しろ」とは言わなかった。むしろ、勉強について口を出す回数は近所のお母さんより少なかっただろう。それでも私が成績に怯え、間違った方向性の捉え方をしてしまったのだから、母の影響はそれほど大きかったのだと思う。

 私が高校に上がる頃にはそれも落ち着いて、末っ子が当時の私と同じくらいの年齢になると成績に対して厳しくなることは殆どなくなった。

 こんな環境で育てば、いろんな部分が歪んでいく。自分を追い込むことで自分のバランスを保つという矛盾した生活をしていたら、いつかは破綻するのが当たり前だ。それに気付かず全力疾走し続けた結果、私はうつ病になったのだと今は分析している。

2. 価値観のパラダイムシフト

 私はうつ病と診断される前から、大学内のカウンセリングを利用していた。何しろ無料で週に一回、臨床心理士の先生が話を聞いてくれるのである。利用しない手はない。これは、私が初めて他人に助けてと言った出来事だったかもしれない。

 そこで話していたある日、私は「ああ、これは脱線事故だ」と閃いた。電車と同じ、レールの上を綺麗に走ることしか出来ず、信号に従うことしか出来なかった私が、初めて脱線したのが、今のこのうつ病なのだ、とふいに理解した。

 それまでの私であったら、脱線したことに大いに焦り、なんとかして立て直そうとしたかもしれない。だが、私は脱線したことがなんだか嬉しかった。脱線したその道を進んでみたら、きっともっと広い場所に行ける。これまでと違う自分になれる、と思えたからだ。

 そう思えたとき、私の中でパラダイムシフトが起こり、うつ病という病気を「失敗」に変えることが出来た。失敗というのは、何かを学ぶからこそ失敗と言える。それまでの私は、うつ病になったからと言って、何かを学び変えなくてはいけないなど思いもしなかった。早く普通の人間に戻りたい。どうすればいいのか。辛い。苦しい。そればかりぐるぐる考えていた。

 だが、それこそ今までの人生で自分を少しずつ縛り上げていたものだったのだ。自分の呼吸が苦しいこと、何かにがんじがらめになっていること、もっと自由で適当でいいこと。誰かのためだけに生きているのではないこと。自分を優先し、自分を労っても誰も怒りはしない。むしろ、そう出来るのは自分だけなのだ。

 凝り固まっていた価値観が、その日から徐々に自分に対しても解けていった。

 私はうつ病という「失敗」があったからこそ、今も生きているのだと思う。精神的に病んだことで生きているとはおかしなことかもしれないが、うつ病の今より、それ以前の自分の方が人間として窮屈でつまらなかった。うつ病になったからこそ見えた世界も、感じたことも、たくさんある。失敗したからこそ、精神疾患を抱えているからこそ、幸せもまた、実感できるようになった。

※うつ病は精神的にも身体的にもほんっっっっっとうにしんどくて、人間とは呼べない状態にまで墜ちるときもあったが、それでもなお、うつ病が私を人間にしてくれたとも言える※

 

#あの失敗があったから

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