見出し画像

漫画名言の哲学10 『BLEACH』、詩的言語の到達点

週刊少年ジャンプの歴史において、私は三人の作家を特別な思いで見つめている。荒木飛呂彦先生、秋本治先生、そして久保帯人先生だ。前の二人への深い尊敬については以前述べたが、久保先生もまた、私の魂を揺さぶる稀有な表現者である。

彼の紡ぎ出す言葉は、時に「オサレ」と揶揄される。だが、それは余りに浅はかな評価だ。その詩的表現には、現代思想と呼応する深い哲学的示唆が含まれている。
残念ながら『BURN THE WITCH』以降、彼の新作は発表されていないが、彼の残した数々の言葉は、今なお私たちの心に鮮やかに息づいている。

今回は特に印象的な四つの巻頭ポエムを、それぞれの哲学者の思想を手がかりに読み解いていきたい。​​​​​​​​​​​​​​​​


時間の質的変容

僕は ついてゆけるだろうか
君のいない世界のスピードに

久保帯人著「BLEACH」

死神の力を失った一護が、もはや見ることすらできないルキアを想って詠んだこの言葉は、ベルクソンの時間論と深く共鳴する。

ベルクソンは、時計で測られる均質な時間と、実際に体験される「持続」としての時間を区別した。一護が感じているのは、まさにこの質的な時間の変容だ。ルキアのいない世界は、同じ速度で進んでいるはずなのに、まったく異質な時間として体験される。それは単なる喪失感ではない。世界そのものの質的な変容であり、ベルクソンの言う「純粋持続」の体験なのだ。一護の嘆きは、近代的な均質時間では捉えきれない、魂の時間を表現している。


剣と抱擁の弁証法

剣を握らなけらば おまえを守れない
剣を握ったままでは おまえを抱き締められない

久保帯人著「BLEACH」

茶渡泰虎のこの言葉は、ヘーゲルの弁証法的思考を鮮やかに表現している。

「力」を得ることは、同時に何かを失うことでもある。これは単なるトレードオフではない。ヘーゲルが説くように、否定を通じてこそ、より高次の総合へと至る可能性が開かれる。チャドは「守る」という使命と「抱擁」という親密さの間で引き裂かれながら、その矛盾を引き受けることで成長していく。剣を握る手と抱擁する手の対立は、より深い愛の理解へと昇華されていくのだ。


死の科学者

産まれ堕ちれば、死んだも同然

久保帯人著「BLEACH」

涅マユリのこの言葉は、ハイデガーの「死への存在」という概念を、より過激な形で表現している。

ハイデガーにとって、人間は常に死に向かって投げ出されている存在だった。しかしマユリは、その「死への存在」を誕生の瞬間にまで遡らせる。生まれることは既に死ぬことであり、その認識は実験体だけでなく、自分自身にも向けられている。彼は自らの身体すら実験台とし、改造を重ねていく。誕生と死の同一性というラディカルな存在理解は、彼の「狂気」の科学の本質なのだ。自他の区別なく、全てを実験の対象とする姿勢は、この根源的な認識に基づいているのである。


欲望の深淵

あたしの心に 指を入れないで

久保帯人著「BLEACH」

毒ヶ峰リルカのこの警告は、官能と拒絶が交錯する複雑な欲望を表現している。フーコーが『性の歴史』で描いたように、禁忌と欲望は表裏一体だ。

心という内密な領域への侵入。それは暴力であると同時に、エロティックな誘惑でもある。「指を入れないで」という言葉自体が、身体的な親密さを想起させる。フーコーが示したように、権力と欲望は常に絡み合っている。リルカの言葉は、その複雑な関係性を、官能的なイメージとして昇華させているのだ。プライバシーへの侵犯という暴力が、逆説的にエロティックな緊張を生み出すさまを、見事に表現している。​​​​​​​​​​​​​​​​


おわりに - 天才、久保帯人の哲学

ここまで『BLEACH』のポエムを哲学的に分析してきた。かつて「中二病」と呼ばれた感性は、実は深い哲学的思索と地続きだったのではないか。ベルクソンの時間論、ヘーゲルの弁証法、ハイデガーの存在論、フーコーの権力論。これらの思想は、久保帯人の紡ぎ出す言葉の中に、確かな反響を見出すことができる。

私の中の「中二病」は完治していないのかもしれない。しかし、それは誇るべきことだ。なぜなら、少年マンガの中に哲学を見出そうとする感性こそ、世界の真理に最も近づける道の一つなのだから。​​​​​​​​​​​​​​​​


いいなと思ったら応援しよう!