見出し画像

お父さんメモ:焦らないで大丈夫、文字をゆっくり読んで解釈を楽しもう

まだ全く理解できていない、三木清の人生論ノートに触発されて、お父さんは、お父さんメモなるものを書いておく。

まずはじめに、伝えておく。
晴れた日であろうと、同じ空の下で、悲しみや絶望に暮れている人がいる。夜はいっそう、様々な苦しみを携えている。月曜日を避けたくなって、枕に涙する人もいる。

子どもたちへ。
そういうときに、このメモを読んで、少しでも気持ちが落ち着くのであれば、本当に嬉しく思う。

ゆっくり文字を読む大切さについて、書き残しておく。

今日の世界は、知らなくてもよかった他人への憧れを持たせ、自分の不甲斐なさを痛感させるものとなっている。インターネットに触れることで、「この人は凄いな」という尊敬の念を抱くとき、なぜか、内心で、何もしてない自己への誹謗を重ねてしまいがちであることを、別に変だとは思わない。どうしても辛くなるものだ。

時間あたりのアウトプットの質、つまり、どれだけ、他人から価値があると思われるものを如何に多く作るか、が、今日の人類の関心事になっているのであろう。

アウトプットを重視するばかり、読書をインプットだと思いがちになっていないか。インプットを効率よく進めたいと思ってないか。内容を素早く掴むために、要約を読んで済まそうとしてないか。スマホのスクロールで、何行飛ばしているのか?

近年の言語モデルは、早く、速く、情報をインプットし、アウトプットしたい欲求に従って、発展してきた。お父さんは、研究者として、この流れに乗って急いでいる社会を憂いている。

この世界線を、なんかオカシイと思って、構わない。人間の処理能力を超えているのだ。

本を、記事を、noteを、焦って読んでいないか?斜め読みしてないか。文字の書き手が言いたいことを、さも、速く正解を掴みたいとばかりに、急いで読んでないか。

いつか、中島敦の、文字禍について触れたい。
人間が発明した文字により、肩コリ、物忘れ、近視がもたらされたと考えると、文字禍で取り上げられている時代よりも、現代はよりいっそう、文字の霊により、人間は苦しめられているといえよう。

とりあえず、一行一行、私はどう解釈しているのか、他にどんな解釈があるか、文字を我が物として、読んでみるといい。

止まれ!

自由に解釈してよい。問いかけてよい。本にメモをしてもよい。感想を無理にアウトプットしなくてよい。鑑賞してよい。読み終わらなくてよい。好きなところから読んでもよい。経過を楽しんでよい。子どもに、その日読んだたった一行の驚きを伝えてよい。解釈に特殊性を持たなくてもよい。大喜利ではないのだから。無理に読まなくてよい。

慌てると、文字は、貴君に襲い掛かる。
ゆっくりしていると、染み込む。
頭では気付いていないが、身体に染み込んでいて、喜んでいるものだ。

古代ギリシアでは、読書は、声に出し、みんなで、解釈を鑑賞し合うものだった。一人で急いで読むものではなかった。だから、本を貸してくれと友から頼まれたとき、「実は、メモ書きしてしまった本こそ、借りたいのだ」と言われたら、その友は、鑑賞仲間になるであろう。

焦ってインプットする者には、これで十分だという状態は訪れない。文字をゆっくり読み、解釈を楽しむ者には、今日の満足感と、温かい眠りがもたらされる。

あくまで、貴君の身体の、自然な発意のままに、任せてよい。お父さんの経験上、急いで良かったことは一度もなかったし。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集