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四ツ谷、麺フェチ歓喜の巻

お弁当の中に入っているスパゲティが好き、という話をこの前したけれども、それが呼び水になって思い出したことには、私、そもそも「素の麺」が好きなのだった。

ここでいう素の麺というのは、何も味付けがされていない茹でただけの麵という意味ではなくて、「具沢山」の対義語としての話だと思っていただきたい。つまりは素うどんの「素」ですね。

その好みを自覚したのは、小学生のころだった。土曜のお昼に、同居していた祖母が作ってくれた、焼きそばを食べながらこう思ったのだ。
焼きそばって、結局麺がいちばんおいしいんだよなあ。野菜やお肉の食感に邪魔されず、ソース味の麺だけを無心に頬張れたら、どんなにいいだろう。

そのころから筋金入りの「好物は最後まで取っておく」派だった私は、その妄想を実現させようと、祖母がせっかくたっぷりと入れてくれたキャベツやにんじんや豚肉なんかを先に全部食べてしまい、皿の上を焼きそばの麺だけにした結果、お行儀が悪いとしこたま叱られたのだった。

大人になってからはしゃきしゃきに炒められた野菜のおいしさも理解したので、今はもちろん、ちゃんと具と麺を一緒に口に入れて味わっている――と言いつつ、家で焼きそばやパスタを食べるときなんかは、半分無意識に、前半でこっそり具を多めに口に運んでいることが多い。パスタはたらこスパやペペロンチーノなど、具の存在感が少なめのものが好物だし、「UFO」や「一平ちゃん」といったインスタントの焼きそばは、デフォルトでほぼ麺なのでうれしい。やさぐれた気分のときは何も具を入れない袋ラーメンを作って、食べても食べても麵だけが口に入ってくることに歓喜したりもする。

不思議なことに、素うどんやざるそばなんかには、そこまでの萌えは感じない。恥ずかしながら私にとっての「素の麺」の魅力は、ちょっと体に悪そうな濃い味と、分かちがたく結びついているようだ。
ジャンクな味がしっかり絡んだ麺を一心不乱に啜っては噛み、飲み込んでいるときの私には、何か脳内麻薬のようなものが分泌されているのかもしれない。そうとしか思えないような、猛々しい幸福感がそこにはある。

そういうわけだから、先日初めて四ツ谷「嘉賓」を訪れ、名物のカキソース和えソバなるものを食べたときは驚喜した。平松洋子さんのエッセイにも出てくる、歴史あるひと品で、大きな平皿の上にただ、オイスターソースで和えた細い中華麺だけがどっさりと乗っているという代物だ。肉も野菜もイカもエビもそこにはなく、ただ、麺との対話。

牡蠣の旨味をしっかり感じるソースが絡んだ、絶妙な塩加減の細い麺を、箸でたぐって、わしわしと噛み締める。ぷつぷつと小気味よくちぎれる麺、小麦と油の風味、ソースのコク。脳のどこかでじわじわと、しあわせ成分が分泌されるのを感じた。ときおり横切る葱や生姜の気配も、麺を噛んでは飲み込む反復作業の邪魔になることは決してなく、心地よいアクセントだけを残してすみやかに消えてゆく。頬張っても頬張っても茶色い麺。嗚呼。

小学校のときは、祖母に叱られたけれど――この料理がこれだけ人気だということは、私と同じ脳内麻薬に憑かれたひとが、世の中意外と多いんじゃないかしら。

おたがいこれをいつまでも楽しめるように、せいぜい節制しましょうね。
きれいに平らげた皿を名残惜しく眺めながら、向かいのテーブルで、奥の円卓で、一心不乱に茶色い麺を掻き込む同士に向かって、心の中でそっとつぶやいた。






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