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豚バラ肉との攻防、1勝1敗
スーパーマーケットで買い物かごに入れるとき、いちばんテンションが上がる食材はなにか。私の場合、それは「豚バラのかたまり肉」だと思う。
発泡スチロールのトレイにながながと横たわる、白とピンクの層からなる巨大な肉塊。それを手に取る瞬間の気持ちが湧きたつ感じは、ほかの食材ではちょっと味わえない。
そもそも、かたまり肉という存在が特異なものではある。お祝い事や仕事のストレスが溜まったときなど、たまの贅沢にローストビーフ用の牛腿肉を買うことがあるけれど(表面を焼き付けてタタキで食べるのが好き)、あれを手に取るときも、なかなかに昂奮する瞬間だ。
けれど、豚ばら肉を買うときの発奮は、それとはまた一線を画すレヴェルのものなのだ。
大きさが違う、というのはあるかもしれない。牛肉を塊で買うときは、せいぜい200gか、奮発しても300g前後のものを手に取ることが多い。対して豚ばらは多くの場合、並んでいるパックのデフォルトがそもそも500g~というありさま。いきおい、正真正銘の「デカい肉」という佇まいになる。
けれどもそれなら豚ヒレの塊を買うときも同じような心理状態に陥るはずなのに、そうはならない。昂奮というよりは、むしろ穏やかな心持ちである(豚ヒレ肉を買うときはたいてい、塩豚やポトフなど、「ていねいな暮らし」感のある料理を作ろうとしているからだろうか)。
ということは、アレだ。脂身だ。
私は要するに、豚バラ肉の「脂身」に昂奮しているのだ。ピンク色の肉の上をたっぷりと覆う、ましろく分厚い脂の層。
輸入牛のステーキ肉などにも立派な脂身があるけれど、言ってみればあれはせいぜい赤身のはしっこにくっついている程度である。赤身が主、脂は従。
その点豚バラの脂身は顔つきが違う。赤身と交互に層をなして、隙あらば主導権を握ろうとしている猛者の顔だ。こいつの牙をどうにか抜いて、ぷるりとおいしい食感に仕立てねばならぬ。猛者に立ち向かう者の常として、私はぶるりと武者震いをする。
そういうわけで、角煮を作るときの私は非常に勇ましい。
いくつかの四角いかたまりに切り分けた豚バラを、カンカンに熱したフライパンでじゅうと焼き付ける。もくもくと立ちのぼる煙、湯水のように染み出すラードに怯んではならぬ。
脂がやや抜けて、きつね色の焼き目が軽くついたら肉を鍋に移し、葱の青いところと生姜、にんにくと一緒にたっぷりの冷水から茹でて、調味料を加えてひたすら煮込んでいく。
白く分厚く強情だった脂身が茶色い煮汁に染まり、いかにもおいしそうな艶を宿し始めるとき、私が感じるのはまごうことなき征服感である。
その征服感と共に鉢に角煮を山盛りにし、辛子やゆで青菜、白髪ねぎに芋焼酎のお湯割りも準備して、さあ覚悟しろと箸を入れる。居酒屋ならばせいぜいひとり一切れの豚角煮、今は一皿すべてが私のもの!
ほろほろとほどける赤身と、ふるふると柔らかく緩んだ脂身をいちどに口に含んでとろかす瞬間、勝利の高揚は確かに私を満たす。
しかし、私の天下はすぐ終わる。一切れ、ふた切れと食べ進めるうち、いちどは白旗を上げたはずの脂身が、胃の中でさかんに自己主張を始めるのだ。
ああ、このまま食べつくしてやりたかったのに、ここまでか。
消化器の弱った大人は、その代わりに知恵を付けている。そっちがその気なら、明日はゆで汁で角煮ラーメン、その次は角煮丼と、ちまちま楽しみつくしてやろうじゃないか。
ほくそ笑むような気持で敗北感を塗り替えようと努めながら、保存容器の蓋の向こうで白く固まり始めた脂を睨みつける。冬の夜の台所は、しんと冷えている。
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