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とぼけた災難、愉快な不穏|『エドワード・ゴーリーを巡る旅』に寄せて

ちなみさんのご紹介のお陰で、奈良で行われていたエドワード・ゴーリー展の最終日に滑り込むことができた。

奈良県立美術館に行くのは初めて。
近鉄奈良駅からまっすぐ、奈良公園を横目に歩く。鹿や観光客が織りなす混雑からすっと横道にそれ、緑豊かな遊歩道を行くとひっそりと現れる、しずかな建物だった。

エドワード・ゴーリーの何が好きか、と聞かれて、わかりやすく説明するのは少し難しい。特に有名な作品である『ギャシュリークラムのちびっこたち』や『不幸な子供』、『敬虔な幼子』なんかはいずれも小さな子どもが容赦なく酷い目に合う話で、筋だけ聞けば悪趣味に聞こえる。
でも、それらの絵本を好きな人の多くは、「子どもが不幸になる話が好きだから」彼の作品に熱狂しているわけではないだろう。

けれど、そんな残酷さがまったく含まれていなかったとしたら、はたして私はゴーリーの絵本をこんなに好きになっただろうか?
そんなことを考えながら、美術館へ足を踏み入れる。
好き、と言いながら、私は今までただ日本で出版された絵本を集めていただけで、ゴーリー自身のパーソナリティや人生について知ろうとしたことはなかった。
そんな状態でたっぷり250点の原画や資料を見て回るものだから、脳内が大興奮。

まず印象に残ったのは、最初のほうで展示されていた『不幸な子供』の原画だ。裕福な家庭に生まれ育った少女が父親の死を発端として、立て続けに悲劇に見舞われるという、題名通りの物語。
絵本で見た時も背景の書き込みがすごいと思っていたけれど、印刷された状態よりもかなり大きい、原画の状態で改めて絵を目にすると、その偏執的なまでの筆致が目の前にぐんと迫ってくる感じ。

『不幸な子供』より

筆圧で絶妙に抑揚をつけられ、時に迷いがないようにも、震えて揺らいでいるようにも見える線で細かく細かく書き込まれる、床や壁の模様、クローゼットの曲線、そこここに浮かぶ濃い陰影。
その中にあるからこそ、主人公であるシャーロットの明るい色の肌や髪、白い服が、無垢の象徴として鮮烈に目に飛び込んでくる。

作風は少し違うけれど、ヒグチユウコさんの原画を目にした時の感覚に近い気がした。うっとりと見入るというよりは、息をつめて、目をこらして、なにも見逃すまい、と必死になってしまうような。目をそらすことを許さないような気迫が、インクの跡からにおってくる、というか。

でも、こんなに鬼気迫る線で描かれているのに、シャーロットの不幸がちっとも湿っぽくないのが不思議。寄宿舎に入れられてほかの子にいじめられたり、両親の形見のロケットを盗まれたり、果ては見るからにジャンキーの、あやしい男に誘拐されてこきつかわれたりするのに。ぎゅっと胸が痛くなるというよりは、ドキュメンタリーでサバンナでガゼルがライオンに襲われる様子を見ているのに近い感覚なのだ。

シャーロットの表情があまり動かないから、という理由は大きいかもしれない。
ほんのり微笑んでいたり、泣いていたり、という場面はあるのだけれど、風景の書き込みに比べると申し訳程度のシンプルな線でささっと書かれたように見えるので、なんだか「微笑む子供」「泣く子供」というような記号としかとらえられないのかも。

そう、記号だ。シャーロットは登場した次の瞬間からどんどん不幸になり始めるし、両親や寄宿舎の先生、誘拐犯とのコミュニケーションの様子もほとんど描かれず、性格もわからない。だから読む人が感情移入をする暇がなく、世の中で起こりえる出来事のいちサンプルとして、彼女は「不幸な子供」になっていく。
間違いなくかわいそうなのに、本気で悲しむことができない――私の場合、この自分の不合理な心の動きも含めて、ゴーリーの作品の味としてとらえている気がする。

それは『敬虔な幼子』でも同じ。3歳にして信仰に目覚めたかわいいヘンリー坊やの物語の、私はどこに共感すればいいのだろう?
ヘンリー坊やの信仰の道を応援すればいいのだろうか。それとも年齢からすればあまりに不自然な様子の坊やをやや気味悪がる――であろう多分、情報が乏しすぎて絵本からは読み取れないけれど――周りの大人たちに心を寄せる? 迷っているうち、坊やはあっという間に肺炎で死んでしまった。彼のお葬式に偶然行き会った、通りがかりのゴーストみたいな気分になる。
『ギャシュリークラム』に至っては、26人の子どもたちが揃いもそろって登場した瞬間リズミカルに(しかも妙にとぼけた無表情で)死んでいくので、それぞれのパーソナリティに思いを馳せる暇もない。

子供たちの不幸をたっぷり浴びたあと、今度はゴーリー得意の不思議なクリーチャーや、ライフワークとしていたらしいバレエ・舞台芸術の世界へ。

絵本でゴーリーの絵を見ているとき、人物に関しては妙に無表情な顔や奇妙なポーズなんかに気をとらわれることが多かったのだけれど、バレエダンサーの絵にいくつも触れるうち、彼が描く身体の美しさに気づく。特にバレリーナの、すんなりと滑らかな上腕の曲線からきりっと角度をつけた手首、優雅な指の広がり方! 思わずバレリーナばかり3人描かれたポストカードを買ってしまった。
舞台演出用の、奇抜な衣装をつけた人々のイラストも美しかった。興味なかったかもしれないけど、ハイブランドのルックブックなんか手掛けたら、きっと素敵だっただろうなあ……。

そして格好良くポーズを決めた素敵なダンサーの絵の隣に、絶妙にシュールな言葉が書かれているところもいい。「私があなたに羽を渡すの忘れたの、気づいた?」とか、「あなたか私のどちらかが音楽とずれてるのよ」とか。

このバランスがゴーリーの好きなところだなあ、と、しみじみ思った。
ビアズリーばりの繊細な書き込みなのに、肝心の人物の顔はシンプルな線でとぼけた無表情、とか。いくらでも悲劇的に描ける出来事なのに、全体の印象としてはからっと乾いてなぜか笑いまで誘う、とか。子どもはいくらでも不幸にするのに、猫はがんとして無事、とか。あきらかに禍々しくて邪悪な見た目のクリーチャーなのに、目だけはなんだかかわいい、とか。

ゴーリーの絵本を読むと私はいつも、シーソーの真ん中に立っているような気持ちになる。悲劇と喜劇のちょうど間に立って、ちょっとでも片方に重心を傾けると、たちまちすべって落ちて行ってしまいそうな。
残酷なのにとぼけていて、愉快なのにどこまでも不穏。そんな深淵に魅入られて、駆られるようにページをめくってしまうのだ。

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