花の都のリベラル・アーツ
桜が散ってだいぶ経つのに、まださびしい。
今年は雨が多くて、いつにも増してあっという間に散ってしまったように思えるからだろうか。
大阪での住まい周辺が本当に緑の少ないところだからか、東京は桜が多いところだなあ、と感じる。
場所にもよるのだろうけれど、職場の近くにも自宅の近くにも桜並木や公園があり、出社が多いタイミングでもあったので、通勤のたびに桜の枝がほころび、咲き、散っていく様子を思うさま眺めていた。
夜桜も見ることができた。友人と食事をした帰り、八部咲きほどのタイミングだった。
週の真ん中、平日の夜でも桜並木の下は賑わっている。まだ肌寒い夜気のなか、しらじらとした光を放っているような花の雲と、それに照らされる酔客たちの顔、顔、顔。
桜はきれいだけど、この人出はやっぱりいただけないなあ。
そんな風に思っていると、ほろ酔いで機嫌よく歩を進める友人が、楽しそうにつぶやいた。
「こよひ逢ふ人みなうつくしき、だねぇ」
あっ、と息を呑んだ。
その言葉を聞いた瞬間、その場の風景の美しさが何倍にも増幅されたからだ。桜並木を照らす煌々とした無機質な街灯の光が柔らかな朧の月のそれに変じたような、そんな気さえした。
なにより、さっきまでうんざりしかけていた人波が、まるで夜桜をさらに白く浮き上がらせるための舞台装置のよう。これは魔法?
当の友人は私の衝撃には気づかずのんびりと歩き続けていて、コーヒーでも飲む? という問いかけが、ひどく暢気に響く。
教養ってこういうことなんだなあ。
熱く濃いコーヒーで酔いをさまして電車に乗り、駅から自宅まで歩き、湯舟に身を沈めながら、私は静かに衝撃を受け続けていた。教養がある、ってああいう人のことを言うんだなあ。
かの歌のことはもちろん知っていたけれど、私の場合それは、知っている、というだけだった。
私が人の多さに辟易している間、友人はその人波に春の祇園の浮き立つようなさんざめきを重ねて微笑んでいたのだろう。もちろん祇園の人ごみだってただその中にいたらうっとうしく感じるに違いないのだけれど、歌のうつくしさをベールのように纏わせることで、その喧騒は舞台装置に変わる。
創作の世界には本歌取りという概念、オマージュやパロディといった概念がある。それらの手法を使った作品たちの共通点は、元の創作物と今ここにある創作物が響きあい、倍音のように魅力を増幅させあう、ということだ。
その日の友人のつぶやきは、私にとっては――彼女はそんなこと意識してはいなかっただろうけれど――明治の代に作られた歌と令和の今の景色とで本歌取りをしてみせた、ということに等しい。
私も欲しいな、と思った。知識を人にひけらかしたり、ただ自分の中にため込んで満足したりするのではなくて、自分の中の世界をより豊かに、より深くするために使えるような、そんな術が。
たぶんそれには知識量だけでなくて、感性や注意深さといったものが鍵になってくるのだろうけれど(だからこそ誰でも身に着けられる類のものではないのだろうけれど)、単なる知識で終わるか、教養として血肉になるかの分岐点は、そこにあるのだと感じた。
奥が深いね、リベラルアーツ。
2022年にも似たようなことを言っていた、なかなか成長できていない