歳を重ねられない
歳を重ねるたび、だんだんと心も身体も全力疾走出来なくなってきているのを感じる。
これが巷で言うところの息切れと言うやつなのか。
大人は、決められたことをして、決められた毎日を過ごす。
私も何となくではあるが、そのような生き方が楽であることに気付き始めている。
だって、その方が難しいこと考えなくて良いもの。
安定しない毎日を嘆くような無駄な思考を省き、楽な暮らしがしたい。そう思う。
そう思いながら、何処かしらから浴びてくるストレスなのか分からない感情をアルコールで身体の外へ流すように、いたずらに日々を消化しているだけだ。これでは、全く人間としての成長が無いのだが。
この場合、歳を重ねるというよりも歳を食うと言った方が適切なのだろうか。
不安定に毎日を過ごすより、日々を安定化させた方が気持ちの負担は減る。
将来的に何の不自由も無く過ごせることが保証されているならば、人間は人生の大半を不自由な時間に割くようなことはしないだろう。
基本的にお金を貰ってするような事柄は他の誰かがやりたくないと思っているようなことだろう。
人は自分でやりたくないことややれないこと、自由な可処分時間を作出したいがためにお金を払って他人に仕事を任せるものだ。
中には労働することが生き甲斐で、拘束こそ人生の自由時間と捉える見方をする人もいるのだろうが。
経営者か自営業にでもならなければ、不自由な時間になることがほとんどな気がする。
多くの人は、最低限、生きるために多くの時間を拘束される労働に当てることになる。不安だから。
よく人生の大先輩くらい歳の離れてる人からは、お金はあるに越したことはないよと言われる。
確かにそうだろう。若者の為を思って助言の言葉をかけてくれているのだろう。
イエスマンとして傾聴する私がいる一方で、あまり重きを置いて考えていない私も居て、我ながら情けないことに何だか長期的な計画性の無い人生だ。
人間と言う生き物は先々のこと、見えないものに目を向けて、思考を巡らせる生き物だ。
時として、見えないものを想像力だけで恐怖へと変容させる。目に見えないことを恐ろしいと思う。稀有な思考回路を持つ動物だ。
想像力は良くも悪くも脆く、想像から生まれ出る感情の増幅もまた未知数である。
LINEの既読1つで嫌われてるのかと不安になり、私たちこのままで良いのかななんて言う別れ話が始まり、最終的には修羅場にまでさせるのが人間の想像力だ。
年齢が上がるにつれて、自分の中での凝り固まった価値観も働き、ますますこの想像力は創造力の欠けたものになってゆく。
もう歳も歳だから新しいことに手を出しても仕方がない。私はこう言う人間だから~できない。とか、思うのが創造性の無い人間の想像力だ。私も毎日、少しずつだが、自分から創造力が欠乏していくのを感じている。
この場合、歳を重ねるというよりも歳を取ると言った方が適切なのか。
そんな私はまだ大人になりきれてないうちに、馬力が無くなってきているのだ。この文章もある意味で、凝り固まりなのか。
私も、歳を重ねたい。