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生きるエネルギーは生活導線に配置しなければならない

"生きるエネルギー"と聞いて、みなさんは何を思い浮かべるだろうか?

ご飯や肉などの、文字通り体に必要な栄養素としてのエネルギーなのか。それとも、本や映画、音楽などの文化的なものによる"心に必要なエネルギー"なのか。

ぼくが今回伝えたいのは後者。つまり、"心に必要なエネルギー"についての話である。言うまでもなく、ぼくはこの"心に必要なエネルギー"を生きるために必要で大事なものだと思っている。

なくても死ぬわけではないが、それでいうとぼくは"生きる"ということを、ただ呼吸して動くだけとは捉えていない。

ともかく、本や映画や音楽。そういった文化的なものが生きるために必要だ、とぼくは言いたい。だけど、この手のものは、昨今、新型コロナウィルスにより"不要不急"とされ、少し肩身の狭い思いをしている。

そういった背景もあって、このnoteはある種の祈りを込めて書く。例によって話は少し(かなり)遠回りになるが、ぜひ最後まで読んでみてほしい。

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ビジネスの世界では即レスが基本。

いきなりビジネスの話になって、自分でもひどい温度差を感じるが気にせず続けたい。

ビジネスにおいては、完璧な返事に時間をかけるよりも、"完了"を目指す意識が大事だという。

これにはぼくも同意している。自分に置き換えて考えてみても、完璧なものが長い時間かけて返ってくるより、まずは状況だけでも返ってきた方が助かる。仕事が出来る人は間違いなく"即レス"で何かしらの返事が返ってくるものだ。

完璧より完了。ぼくもそうありたいと思っている。

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こんなことを書いておきながら、ぼくには今、即レスできずに10日間くらい抱えてるものがある。書きながら、そのことがとても心苦しい。

何かというと、ぼくに生きるエネルギーをくれた人へのお礼だ。お礼であれば、それこそ即レスであるべきだろう。でもなぜかそれができない。もう10日間も、お礼がキチンと書けずにいる。

これはなぜか?
そう、もらったものがあまりにも嬉しすぎたのである。さらに、合わせて書かれてたnoteがとても美しかったのだ。

こうなってくると、ただ、「ありがとう!」って言えば済む話ではない。(と、勝手に思っている)

心情を正直に吐露するのならば、書かれてたnoteに見合うものを書きたいと思ってしまっている。

完了よりも完璧を目指してしまってるわけだ。この場合の完璧など、自分が感じた気持ち以外にあるはずがないのに。

ここで考える。
なぜぼくは「ありがとう!」だけで済ませたくないのか。

SNSが発達した現代に生きるぼくらは、日々、人類史上例を見ないほど言葉のやりとりをしている。心に浮かんだ気持ちは、LINEでもDMでもすぐに簡単に相手に送ることができる。前述したビジネスにおける"即レス"も、この辺のツールのおかげで成り立っているのは間違いない。

だからだろうか。
どこかそれに物足りなさを感じている気がする。いつでもすぐに送れる文字は、時間をかけてないという謎の罪悪感を生むのだ。

もちろん、いたずらに時間をかければ心がこもるわけでもないことも知っている。自分でも相手に完璧よりも"完了"を求めているシーンがある自覚もある。

プレゼントは相手のために選んだ時間が価値なんだよって人もいれば、要らないものを贈られても困るからAmazonほしいものリストに入れてるやつが1番ありがたい、という人もいる。

このように、テクノロジーの発達と人の気持ちはとてもバランスが難しいのだ。

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"生きるエネルギー"というテーマを掲げておきながら、完全に脱線して謎の葛藤は続いているが、そろそろ本題に入っていきたい。

まず、誰に何をもらったのか?というところから伝えないと話にならない。説明するとこうだ。

・noteで知り合った友人が
・代わりに映画館に行って
・特典ポスターをもらってきてくれた

手短に説明できた。これは褒めてほしい。

だが、手短であるが故に何ひとつ大事なことは伝わっていない。
もうわかったのではないか?やはり簡潔なものは、物事の表面的なことしか伝わらず、本当に大事な奥の奥にあるものは見えてこないものだ。

これだけ見ると「はいはい、お前の言う嬉しかったってことは、楽に特典ポスターが手に入ったってことね」って思うかもしれない。もちろんそれはあるんだけど、それだけではないというのが今回の大事なポイントだ。

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おジャ魔女どれみ20周年記念作品として作られた「魔女見習いをさがして」という映画。この映画は、恐ろしいほどぼくの心を震わせた。今や生きるエネルギーそのものみたいになっている。

生きるエネルギーそのものなので、とにかく生活導線に配置しておく必要があるのだ。毎日、自然に目に入ってこなければならない。

例えば、朝起きたら健康のために白湯を飲む人がいて、それに生きるエネルギーを感じてるとする。

その場合お湯を沸かすケトルは、キッチンのわかりやすいところに置いておかないといけない。白湯を毎日コンビニとかに買いに行かないといけないとなると、それはちょっとしんどなってことになる。

生きるエネルギーは生活導線に配置しておかねばならないのだ。生きるエネルギーを感じるのにエネルギーを使うようなことになってはいけないのだ。

当然、生きるエネルギーが映画作品である場合はポスターを家のいい位置に飾らなければならないということになる。わざわざWEBを開かないと目に入ってこないのでは話にならない。こういうときはやっぱりアナログが強いのだ。

「魔女見習いをさがして」は、人生につまずいた訳あり女子の3人が、子供の頃に好きだった「おジャ魔女どれみ」というアニメ作品を通じて出会い、大人になることでいつの間にか忘れてしまった"大切な何か"を思い出し、再び自分の人生を歩み始めるという物語だ。

生きていれば嫌なこともある。それでも楽しく生きたいなぁと思ってるぼくにとって、この「魔女見習いをさがして」のポスターをいい位置に飾ることは、大袈裟でなく人生を彩るのに必要なことなのだ。この作品が伝えてくれる"大切な何か"をずっと忘れない大人でいたいのだ。

それにしても"大切な何か"とはえらく抽象的な表現である。映画の中でも、もちろん「今から言うこれが"大切な何か"ですよー!見逃さないでくださいねー!」とあらかじめ断りが入って描かれているはずがない。

同じように、人生のターニングポイント的なものは、予告もなければ「今がそれですよ!」と断りがあって訪れるものではない。そう、つまり"生きるエネルギー"が必要な場面を自覚するのは難しいということなのだ。

だから、こういうものは無意識に感じれる生活導線の中に配置しないといけない。つまりぼくは「魔女見習いをさがして」のポスターをどうしても部屋のいいところに飾らなければならないのだ。これはどうしても、絶対に!である。

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ぼくがどうしてもポスターを手に入れなければならなかった理由は伝わったと思う。でも、それならなぜ自分で映画を観にいかないのか?こんな疑問が浮かぶ人もいるだろう。

まず、大前提としてぼくはこの作品を映画館で7回観ている。残念ながらぼくの住む広島県では去年の12/24で上映は終了してしまったけど、今もやってるならば間違いなく観に行ってる。

ぼくはあまり映画に詳しくないのだが、映画というのはまず全国の大きめのシアターで上映され、終わった後にミニシアターっていうのかな?少し規模の小さい映画館で個別に上映されることがあるらしい。

問題のポスターは、全国の映画館での上映が終了したあと、京都の出町座という映画館で配給が始まり、そこで来場特典として配られたものなのだ。

館内にも専用の装飾が施してあり、映画館自体の趣きもよい。

「これは行ってみたいぞ…」

と、思ったのだが、ここで出てくるのが例のアイツ。そう、新型コロナウィルスだ。世間は緊急事態宣言が発令されてる状況。広島もちょうど感染者が増えてきて"自粛"というムードが漂っていた。

そんな状況で、流石に映画のポスターをもらいに行くだけのために京都まで行くのは…と、少し躊躇われた。

前述した通り、ぼくにとって「魔女見習いをさがして」のポスターは生きるためのエネルギーなのは間違いない。ただ、世間はそうは思ってくれないだろう。

そう、冒頭で生きるためのエネルギーを"体のために必要な栄養素"と"心に必要な文学"に分けたが、前者の認識は世間に共通なのに対して、後者は人それぞれ。つまり、理解してもらうのにそれぞれの文脈が必要ということなのだ。

心に必要なエネルギーが、コロナ禍以降"不要不急"と言われてる理由はそこにある。人それぞれだから、明確に定義することができないのだ。そこがおもしろいというのに。

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そんなわけで、毎日、出町座のTwitterを見ながら、いいなぁとは思いながらも、自身の決断としては「あきらめよう」に落ち着いていた。

別にこの特典ポスターがもらえなくても、今持ってる別のやつがある(あるんかい!!)し、それで充分じゃないかと。もう充分エネルギーもらってるじゃないか、と。

そんな風に自分の気持ちに折り合いをつけてたのだが、出町座での配給が終了する2日前、急激な心境の変化が起こる。

ぼくはやっぱり締め切り間際に弱いのだ。居酒屋でも"ラストオーダー"と言われると、別に飲みたくもないウーロン茶をなんとなくオーダーし、いらなかったなぁと思いながら飲むようなやつだ。

でも、このポスターはラストオーダーでなんとなく頼むウーロン茶とは訳が違う。ぼくに"生きるエネルギー"を与えてくれるやつだ。

やっぱりどうしてもほしい!と思い、Twitterにつぶやいた。

実は、このツイートをするときに懸念してたことがある。それは、ぼくのために良かれと思って特典ポスターだけもらいに映画館に行きましょうか?って人が現れたら悪いなってことだ。

映画のポスターはほしい。けど、それだけの為に作品を見ないのに来場してもらうのは違うな、と。その人に対しても、作品に対しても。

そう、ぼくの本音を正確に言うと、映画のポスターが欲しい!かつ、「魔女見習いをさがして」を好きになってくれる友達がほしい!これなのだ。ポスターと友達、両方を手に入れたいという強欲なツイートだったわけだ!

もちろん、その作品を好きになるかどうかは、個人の趣味嗜好によるものなのでわからない。そういう意味では、不特定多数の人が見るTwitterで呼びかけることは適してないのかもしれない。ポスターが手に入りさえすれば何でもいい、というわけではないのだ。

ただ、ぼくには確信があった。

あのツイートをしようと思ったとき、実はある人の顔が浮かんでいたのだ。出町座がある、京都に住んでいるある人。

いや、正確にはその人に会ったことがないので、SNSの「アイコンが浮かんでた」というのが本当のところなんだけど、そんな細かいことはどうでもよくて、ぼくには確信があった。

結論から言うと、この確信は現実のものとなっている。我ながら自分のこういった予感には惚れ惚れする。

それは、実現した今だから言えることであって、もしかしたらその時の感覚は「行ってくれたら嬉しいな」みたいなものだったかもしれない。

けど、不思議とそのイメージはあった。さらに、見てくれたらきっと大切な何かを受け取ってくれるだろうなって思ってた。物理的にも、心情的にも。
言わせないでほしいが、物理的とはポスターのことで、心情的とはnoteの感想文く気持ちである。

noteの感想文、そう。その人とぼくは、noteをキッカケにつながっていたのだ。

noteのコミュニケーションは、非常に遅くて、ゆっくりだ。そのぶん、じっくり読んでるとその人が何を考えて、どんな人なのか伝わってくる。だからぼくには謎の確信があった。

予想通り、その人は、ぼくの代わりに出町座に行って、映画を見てポスターを送ってくれた。そしてnoteに感想記事まで書いてくれたのだ。

これだけ言うと完全に予想通りだったのだが、書かれてた内容がちょっと意外なところがあった。これだからnoteはおもしろい。

もちろん、これはあくまで映画「魔女見習いをさがして」の感想文であり、京都をこじらせている作者ご本人の話である。

ただ、ぼくはこのnoteをまるで自分に贈られたプレゼントのように気に入ってる。

ぼくは思う。

ものすごいスピードで、無数の言葉が飛び交う現代社会。それを象徴するのがTwitterで、そこではとにかく言葉が消費されている。

誤解のないように言っておくが、ぼくはTwitterが好きだ。短文と気軽さ故に、いろんな価値観に触れることができる。

ただ、ぼくはこのnoteを気軽にTwitterにつぶやけなかった。簡単に済ませたくなかったのだ。

最低でも、電車で出町座まで行って、ポスターを受け取り、折れないように気をつけながら映画を観て、郵便局を探して発送。そして帰宅後にnoteに感想を書く、くらいの手間と気持ちを込めたかった。

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おかげで今、ぼくの家には「魔女見習いをさがして」のポスターがある。ぼくは毎日、これを見ながら暮らしている。このポスターは、ぼくに"大切な何か"を思い出させてくれる装置だ。

「魔女見習いをさがして」は子供の頃におジャ魔女どれみを好きだった子どもたちが大人になって、どれみちゃんを通じて出会う物語。

あの人が書いてくれた感想noteには、ぼくのことをひたすら「アフロのおっちゃん」と書いてあったが、1か所だけ「友達との約束」と書いてあった。

そう、「魔女見習いをさがして」のおかげで、ぼくはひとり友達ができたのだ。映画を見てからずっとほしかった、おジャ魔女どれみきっかけでの友達が。

映画「魔女見習いをさがして」がぼくにくれた"生きるエネルギー"は想像を遥かに超えるとんでもないものだぞ…と、Twitterというぼくの生活導線にいる、あの人のつぶやきを見ながら、いつもこのことを思い出してる。

そう、Twitterもそういう面でとても好きなんだよな…手軽なものも、手間がかかるものもどちらも良い面がある。これはそんな複雑な話だってこと。この辺が伝わると嬉しい。

この話はこれで終わりなんだけど…
ん?待てよ。最後にひとつ思うことがある。


新型コロナウィルスがなかったら、ぼくは自分で京都までポスターを取りに行ってたのだろうか?

…行ってたと思う。

なるほど、皮肉にもこの結果は、社会を分断した新型コロナウィルスが生んだものでもあるわけか。だったらぼくは最後にひと言言いたい。

新型コロナウィルスめ、ざまぁみろってんだ。お前らがどれだけ心に必要な"生きるためのエネルギー"を奪っていったとしても、別の形でそのエネルギーは生まれてるんだからなっ!

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