「ふつう」という語がすでに嫌い
今回は、山邊鈴さんのnoteを読んでの感想。ではなく、それによって生まれた気持ち。社会の「格差」についての話。彼女は社会の格差を「ふつうとは何か」という視点から書いています。
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読んだnoteは3つ。『割れ切ったこの世界の片隅で(1)』、『割れ切ったこの世界の片隅でを読んでくださったすべての方へ(2)』、『30万円、好きに使っていいよ(3)』。
これは、今まで背を向けていた重い話でした。
読んでて半目になっちゃったくらい。
自身の「ふつう」を打ち破り、世界に飛び出し、色んな「ふつう」に触れた著者。私たちが日常の中で、『これで取りこぼされる人はいないかな?』と確認するだけで、少し配慮するだけで、身近にいる隠れた “見えない存在” を救えるんだ、と伝える。
続けて「配慮ってめんどくさいですよね。」と言う。相手を想像するだけでいい、それだけで変わる、とも。言葉を発する側も、受ける側も、相手を想像することで、自分の視界が開け、気持ちが伝わりやすくなる。話(2)の最後はこう締められている。
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なんだか内省させられるお話。
今の自分を振り返ってみた。
私は、経済的に比較的豊かで首都圏出身の「恵まれた」場所にいる。そしてまさしく今、「恵まれた」に悩まされている。
共働きのサラリーマン家庭で、比較的遅めに産まれた。お金に困ったこともないし、バイトが必要だったこともない。小中高、部活と学業と遊びをやってれば良かった。共働きであるがゆえに、携帯やスマホも持つのが早かった。塾にも習い事にも行ける。自分も周りも、大学卒業後に就職するだろうという、「当たり前」に「恵まれた」環境が当たり前に揃う。すごい恵まれ方だ。感謝しすぎてハゲそう。
一体何に悩むのか分からない。そのままでいればいいじゃないか。
たしかに、そう。ここまで恵まれていれば、もうこのまま行った方がいいと思う。本当に。皆んなにも言われる。
ただ、
小さい頃からずっと、「親から自分のためにお金が支払われる」ことにストレスを感じてしまう。自分にお金がかかっていることにストレスを感じる。根本的過ぎて、どうにもならないのに。別に嫌味を言われるわけでもない。ごくごく幸せな家庭だ。
なぜなんだろう。
それは多分、許可が必要だから。
やりたい事はいつも、親に黙ってやっていた。バレると怒られる。でも言わない。そんな子だった。
子供のやりたい事はたいてい、「ふつう」ではない。だからやらせてもらえないと思っていた。否定されるのが怖かった。
少し大きくなって、バイトを勝手にできる今、やっと自分のお金でやりたい事を始めた。
後輩の「なんで今までやんなかったんですかー?」という質問に、何でだろーって誤魔化して。
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「普通に幸せになって欲しい」
これが母から逐一言われる言葉。それはそれは嬉しい。こっちも幸せになりたい。ところがいつも、この「ふつう」が心に引っ掻き傷を残す。
「ふつう以上」はだめ?「飛び抜けて」じゃだめ?「億万長者」とかも、、変?
「恵まれた」からこそ、「ふつう」に感謝する。それはもちろんそう。分かっている。
でも今、その「ふつう」を捨てたい。そのために、もがいている。失礼極まりない。感謝が伝わらない。本当にすいません。
「恵まれた」からこそ、「ふつう」でいて欲しい。それが意外に辛いのです。甘えかもしれないけど。
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著者のこの記事を読んで、努力して私の「ふつう」を目指す人もいると改めて気付かされた。恵まれた私の環境、すべてに感謝したい。
ただちょっと、今だけ、自分の方も大事にしていきたい。周りの人に感謝するのは、それからでもいいですか?
自分のことで手一杯。溢れて落ちそう。一旦、自分の「ふつう」を確立したい。
髪の毛をバッサリ切るように、今までの関係性を切りたいと思ってしまう。引きこもってしまう。
こういう自己本位は周りに迷惑なのも分かるし、何より地球のためになっていないけど、これは脱皮なんだと思うことにする。
脱皮が終わるまで、もがくしかない。
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なんだか自己本位を言い訳に、世の中に背を向けるようなnoteになってしまいました。みみっちい。幼い私が残りました。
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