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ロック板のない有料駐車場
最近、ロック板も出入り口ゲートもない有料駐車場を目にする機会が多くなった。
どうやら出入り口のカメラやセンサーでナンバーをチェックしているらしく、規定の時間を超えたにも関わらず料金を支払わずに出ると止められるらしい。
これが私はいつも怖い。
以前までの駐車場のように、出入り口ゲートやロック板があると、物理的に阻まれるため料金を支払わなければ出られないことは明白だ。
しかし、一見フラットでオープンな駐車場に見せかけておいて、実はどこからかカメラで監視されているというのはあまりにも怖すぎるのではないか。
どこにカメラがあるのかよくわからない、というのも怖さを増幅させる要因だ。
これを親に話した時、「払わんかったらどうなるんやと思う?」と私が聞くと「さあ。やってみたら?」と言われたのだが、絶対に嫌だ。間違っても捕まりたくはない。
これを書くとき少し調べたが、未精算のまま車で出ようとすると入り口のセンサーポールが鳴るらしい。
カメラでナンバーも捉えられているので証拠はばっちりだ。不正を繰り返す悪質な車に対しては、運営会社に連絡がいって再入庫時に知らせてくれる仕組み等もあるらしい。
やっぱりあのカメラとセンサー、有能で怖すぎる。
こういう駐車場のほうが不正も少なく、設置する側の予算も少なく車側のメリットも大きいようで、いいことずくめだ。
今後増えていく可能性が高いらしく、確かに効率的だよなぁと感心する反面、なんかそれもちょっと怖い。
なんか、大学のときに社会学の授業でやった「パノプティコン」を思い出した。
ベンサムが考案した監獄で、簡単に言うと囚人からは監視する側が見えないので、いつ監視されているか分からない。常に監視の目を意識して生活する必要があるわけだ。
監視する側からは、少人数で監視できるし常にいる必要もない。メリットが大きい、らしい。
現在は防犯カメラにそれが顕著に応用されているが、基本的に学校や病院などの仕組みも表れている。権力者の視点を内面化して生活することを目的としている印象がある。
私は福祉の職場で、教室のマジックミラーを見たとき、真っ先にこれを思い出した。
福祉という支援の場でこういう手法が使われるのは、かなり怖いことだと思う。
それについては長くなるので今回は多く書かないけれど。
駐車場の件については、まあ以前から駐車場には防犯カメラはついていたんだろうけど、物理的ストッパーはなしで完全にカメラのみで管理するようになったところに、この「パノプティコン感」の加速を感じるのかもしれない。
まあ、効率よく駐車料金を取るとなるとそういうことになるのか…こっちもまあ楽だしな…と最初に感じた恐怖をごまかしつつある。こうやって数年後にはきっと何も感じなくなっているのだろう。
実体があったものが、見えないものになること。
それに対する違和感が、何事も最初はきっとあったはずなのだ。
「画期的、効率的!」と思う気持ちと、何となくの恐怖はわりと同居する。
それをふと思うきっかけが最近あった。
うちの妹は24歳の若者にして全くキャッシュレスの類を使わない、現金原理主義人間なのだが、○○Payの存在に恐怖を覚えているらしい。
それにも関わらず、最近は友達と遊んだ際に「PayPayで送金して」と言われるからと渋々チャージしていた。しかもコンビニのATMで現金を入れてPayPayのチャージをしていた。
そんな人は初めて見たのでびっくりした。
こないだは現金が使えないところでご飯を頼んでしまい、PayPayに1000円しか入っていなかったため妹は旦那さんとカレーを半分ずつしか食べられなかったらしい。
旦那さんもキャッシュレス全く使ってないんかい。異端夫婦すぎる。
この人たちきっと、給料手渡しじゃないとお金と認識しづらいタイプだ。
お金が見えないのは意味がわからなくて怖いらしい。現金を手に持って渡して初めてお金を払ったと認識している。
なんで生のお金が使えないところが増えているんだとキレていた。
こういう感覚は正直、キャッシュレス初期には結構な人が持っていた感覚なのではないかと思う。
私自身もキャッシュレスデビューはだいぶ遅かったほうで、目に見えないところでお金が減っていくのは怖かった。コンビニのレジでピロンとしても、お金を払った感覚は全然なくて「本当にこれ持ってっていいの?」と感じる。怖い。
でも1度使い始めると便利すぎてほとんどPayPayを使っている。いちいち財布出さなくていいし割り勘に便利だし。
もはや割り勘するときにPayPayを持っていない子がいたら「え、持ってないん?」って思ってしまうくらい。
そうしているうちに最初の違和感は徐々に薄れ、日常に溶け込んでいく。
だから、こんなにキャッシュレスが世間に浸透してもその感覚を持ったままでいられる妹もなかなか珍しい。
私にとっては初期のLINEもその一例だった。
高校生で、周りと比べるとかなり遅めのLINEデビューを果たした私だが、これまでメールでしていた友達とのやり取りに「既読」がつくことに恐怖を感じていた。(当時は既読をつけずに読むこともできなかった)
読んだかどうかなんて、手紙やメールだったら私のプライベート空間なはずだった。そこがオープンになり、他者に曝け出されるのは怖い。
でもそれにもいつしか慣れる。LINEについては、今ではきっと、キャッシュレス反対派な妹ですら何も思っていない。
正直、違和感に立ち止まったままでいることが正しいのかどうかはわからない。
頑なにキャッシュレスを使わない妹を見て「頑固な年寄りみたいやな…」と感じたのも事実。
時代にある程度適応していくほうが楽しさや便利さは多く享受できるのかもしれない。
でも、そういう違和感に素直になれるフレッシュな感性は、私はわりと好きだ。時代や流行に汚されない。信用できる。
画期的で効率的なことにつきまとう恐怖は、単にやったことがないことだから、という理由の恐怖ではない気がする。
本来の目的から逸れているような、何かがちょっとずつ削られているような、そんなふわっとした違和感。
きっと私たちが生まれる前から当たり前のように使われているものに対しても、初期に昔の人は何らかの恐怖を感じていたのかもしれない。
その感覚が存在するうちに、言葉にしてつかまえておきたいと思った。
まあ、今は効率的とされることも、様々なことがあって時代が回れば、もしかしたら本当はそうじゃなかったと気づかれるのかもしれない。
人間はそんなに単純じゃないから想定通り動かないし、ものすごく狭い前提の中で成り立つ「効率的」なのかもしれないし。
大きい地震が起きればキャッシュレスは使えない。行きつ戻りつしながら、遠い将来にはすべて結局、原始的で実体のある「もの」に戻ってくるのかもしれない。よくわからないけど。