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加工された寂しさと、生の寂しさ

春から遠方に就職するので、最近は人との別れが多い。
特に、バイトで関わっている子どもと会うのが最後になる日が続いていて、ものすごく寂しい思いをしている。
一対一で密に付き合ってきたからなおさらなのだと思う。

「またね」と言って別れてそれっきりになることはあるのだろうけど、もう会うことはないかなと思いながら別れるのも意外と辛い。

子どもが泣いて帰れないときもある。
それほど好いてくれていたのだなと嬉しく感じると同時に、私自身もただ辛くて寂しい、やり場のない気持ちに襲われる。

別れがただ寂しくて悲しい、こういう単純な感覚は久しぶりだった。
なんだか子どもに戻ったような感覚だった。
大好きな担任の先生が転勤すると分かった小学3年生の春を思い出すような。

大人になると多くの別れはもっとなんだかシステムっぽくて、少し無理をすれば繋がることもできて、そしてしばらくしたら忘れることも経験上知っている。
それからまた会えるかどうかの見通しも何となくついていたりして、意外と打算的だ。

別れるときにその人に幸あれと願うことも、大人になって手に入れた、別れの痛みをごまかすための防衛策なのかもしれない。

もう本当に二度と会えない時には、大人だって子どもの頃のようなどうしようもなさに打ちひしがれるしかないのだけれども。

この感覚、どこかで見たなと思って本棚を漁っていて見つけた。数年前に読んだ小説、森絵都の「永遠の出口」の中だ。

それから長い年月が流れて、私たちがもっと大きくなり、分刻みにころころと変わる自分たちの機嫌にふりまわされることもなくなった頃、別れとはこんなにもさびしいだけじゃなく、もっと抑制のきいた、加工された虚しさや切なさにすりかわっていた。
どんなにつらい別れでもいつかは乗り切れるとわかっている虚しさ。決して忘れないと約束した相手もいつかは忘れると知っている切なさ。多くの別離を経るごとに、人はその瞬間よりもむしろ遠い未来を見据えて別れを痛むようになる。
けれど、このときはまだちがった。十二歳の私はこの一瞬、自分の立っている今だけに集中し、何の混じりけもないさびしさだけに砕けて散りそうだった。
森絵都 永遠の出口

これだった。
読んだ当時はものすごく感銘を受け、メモまでしていた一節なのだけれど、こんなタイミングで思い出すと思っていなかった。

私は、混じりけのないこの瞬間のさびしさに圧倒されている小さな人たちに影響されて、こんな気持ちになっていたんだな。

6年や7年しかない短い人生経験の中で、毎週会っていた人にもう会うことがなくなると理解すること。
きっと24年生きている私とは全然感覚が違うのだろうな。
「東京ってどこ?」と聞いてきた子に答えながら、この子の目から見て私の行く東京はどんなに遠いのか、しばらくってどれほど長いのか、別れはどんなふうに映っているのかなと考えた。

別れに意味づけをすることはいくらでもできる。
特に大人は焦ってそれをしたがる。
「別れは人を強くする」「こんなに好きな人ができてよかった」「きっといつまでも見守ってくれているよ」

それ自体は別に悪くないし、人は多分そんなに痛みに強くない。
自分で意味づけをしてその体験を消化していくものなのだと思う。

ただ、別れのその瞬間にそういう打算や意味づけがよぎることが、大人になると多い。
経験から得たそういうものを、子どもに焦って押し付けてしまう。私もいつの間にかそちら側に回っているのかもしれない。

それが森絵都さんの表現「加工された虚しさや切なさ」にも含まれるんじゃないかなと、何となく思った。

だから、ただこの瞬間だけの別れの寂しさを全身で感じて惜しむ子どもたちの姿に、私が圧倒されてしまった。子どもの頃を思い出す。生の感覚という感じがした。

どちらのほうが良いだとか、そういうことを書きたいわけではないのだけれど、久しぶりに感じた不思議で少し痛いような感覚を、言語化して書き留めておきたいと思った。

私の大好きなあの子たちは、どんな大人になるのかな。
「また会おうね」と書いてくれた手紙を見ながら、私は小学校卒業の時に友達からもらった手紙の中の「またあそぼうね」という言葉を思い出す。
私立の中学に進んだ私は、その人たちのほとんどと結局一度も会うことはなかった。それも知っている。
それでもたしかに、その瞬間は嘘偽りない気持ちだったんだろう。

今はただ、子どもたちとまた会えたらいいなぁと心から思う。

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