ジェイラボワークショップ第67回『リベラルアーツ輪読WS版』【哲学部】[20231030-1112]#JLWS
今回のWSは『大人になるためのリベラルアーツ: 思考演習12題』というあるテーマに対する東大生の議論についてまとめられた本を模しています。
★印は司会の投稿です。
Day1
■コバ
本日から哲学部WSスタートです。皆さん2週間よろしくお願い致します。
★YY12
【はじめの挨拶】
こんにちは。前半1週間をYYが担当いたします。
哲学部では「大人になるめのリベラルアーツ」を輪読しています。(所長が「読書のおと」で紹介してたやつです。)
本書は、あるテーマのもと学生がディベートを行っており、それを淡々と追っていくかたちになっています。
本WSではその中の議題をピックアップして議論を再現していこうと思います。
【本文要約】
本書では、4つある論点のうち以下の2つが最初に示されます。
①「グローバル人材」という用語法が適切だと思うか?
②この用語を認めることを前提として、あなたは「グローバル人材」という概念をどう定義するか?
①における議論の全体的な流れとしては、
・「人材」という言葉への違和感
・「グローバル」とは何か
・中国、インド、シンガポール、フランス、ブラジルなどには「グローバル人材」という概念がないこと
が主要なポイントとしてありました。
【質問】
私は特に「グローバルとは何か」が気になったので、ここをまずは切り口にしたいと思います。
Q1.「グローバル」をどのように定義しますか?
Day2
Day3
■イヤープラグさざなみ
「グローバル」という言葉は、地球をひとつの単位として見る考え方のことを指していると思います。単位という言葉は、それをそれ以上分割できないという意味で使いました。
Day4
■Takuma Kogawa
さざなみさんの定義から考えると、ふつう「グローバル」というときに全世界のことを念頭に置いていないことは少なくないと思います。日米欧がメインでアジアや南米はサブ、アフリカはほとんど考慮されないように感じています。せいぜいインターナショナルという認識です。日本国内でも、私の地元で「東京」といえば一都三県あたりを含むことがありますし、言葉のそのままの意味で地域を表さないことが多いです。
■YY12
ありがとうございます。 夜に返信+投稿します
■imadon
「グローバル」=「経済活動を基盤とする『社会』の範囲が国境を超えた状態」だと定義します。 「グローバル」という語彙が国家の存在を念頭に置いているのは明らかなように思われます。 その上で「グローバル化」するとはどういうことかを考えました。詳しい思考過程を整理してもう一度投稿します。
■YY12
グローバルは中国語で「全球」というそうです。さざなみさんが言うように、地球を一つの単位(球体)として捉えているイメージでしょうか。 また、個人的には「何の障壁もないツルツルな球体」というニュアンスも感じます。(さざなみさんへの返信)
■YY12
グローバル云々の話題は僕が中3~高2の時(2015年前後)が一番騒がれてたように思います。高校入試の面接にも、「グローバルとは何か。その時代にあなたはどう生きるか」は定番質問としてみっちり対策した覚えがあります。 そして、その当時から「グローバル→結局インターナショナル・アメリカナイズの言い換え説」はそうだなと思います。今もそんなに変わってないですね。(Kogawaさんへの返信)
★YY12
【前回質問のYY的回答】
厳密な意味でグローバル、すなわち「包括的な規模で地球全体に関わること」は相当難易度が高いことといえます。それこそ、大地とか空気とかのレベルでしょうか。よって、グローバルとは、ITなどの力で「従来とは比較にならない程、世界は繋がっている」が、その範囲でいえばインターナショナルの域を出ないものと捉えられます。
そう考えた時、「グローバル人材」とはどのように定義できるのでしょうか?大地みたいな人材?
【質問】
「グローバル人材」とはどのように定義できるか
Day5
■Tsubo
グローバル化の定義
僕は,「グローバル化」とは習慣や文化といった国民国家および地域に根づく思想や概念ではなく,「人権」,「資本」など普遍的だとされる概念を重視し,実際に社会構造等を変化させていくことだと思います.例えば,市場を解放し比較的自由な競争を保障したり,今まで存在していた慣習よりも個々の人の人権,主体性を尊重するような制度に変えていったりすることです.
「グローバル化」が究極的な段階にまで進めば,現在の国家間に存在しているような社会制度の差異はなくなり,ほぼ一様な社会制度,政治体制を持つ国家群が形成されると思います.
ただ,「普遍」と言う概念は人間の頭の中にしか存在し得ないので,同時に身体性を持つ人間としては,大なり小なりの地域性を捨て去ることはできないと思うので,「グローバル化」が行き着く先まで行くことはないと思います.
「人権」概念も世界においてだいぶ普及はしましたが,その先進とされたヨーロッパ地域においてもユーゴスラヴィア紛争,ロシアによるウクライナ侵攻など人権を軽視するような行動,事態は多々発生しましたし
Day6
なし
Day7
なし
Day8
★YY12
一旦締めてコバさんにパスします。
■Hiroto
グローバル化は逆説的に一番ローカルな個人という単位を認めていく側面が強いと思います。
小中規模の集団が乱立している状態では、その集団の同質性を高めるために個々の個性が塗り潰されていきますが、一個の究極的な集団になった瞬間に同質性を高める外圧がなくなり、個人の個性みたいなものが重視されていくのだろうと思います。そして今は、全部を中途半端に達成しようとしている段階なのだろうと思います。
★コバ
今日から残り1週間の司会を担当するコバです。文章は明日から投稿していきます。よろしくどーぞ!
Day9
■ウイルスバスター・けろたん
「経費で飛行機の国際便に乗れる人」
★コバ
それではまずは下記クエスチョンから投稿します。
理由:
※論点のアンケートに投票いただいてその理由を文章で答えていただけると幸いです。
上記がクエスチョンとなりますが、以下は上記クエスチョンや今回のWSの背景を共有したいと思います。
今回の哲学部WSは現在哲学部内で行なっている「大人になるためのリベラルアーツ」を題材とした輪読(リベラルアーツ輪読)をWSの場でもやってみよう、というのが今回のWSの背景です。
では、そもそもなぜリベラルアーツ輪読なのか。哲学部では昨年末から今年の上旬にかけてジョルジュ・バタイユ「呪われた部分」、今年上旬から夏にかけてマイケル・サンデル「実力も運のうち 能力主義は正義か?」について輪読してきました。その2冊とも今まで哲学部で扱ってきた本の中では難易度は高めの本でした。それを終えた上で私は「哲学部で難しい本を輪読で扱ってきたのは、難しい本を読めるようになるためではない」と部長として考えています。
バタイユの著書を読んで得られるのはあくまでバタイユの思想です。過去の哲人達の思想をコレクションしていくことがこの哲学部でやりたいことではありません。そうではなく、身の丈の思考を部員の皆には語れるようになってほしいと私は考えています。その私なりの実践として前回のWSでは「働くということについて」という形で(当時の)私の身の丈の思考をWSの場で開示させていただきました。そして今「大人になるためのリベラルアーツ」を叩き台にして哲学部として身の丈の思考を語れるように訓練しているという経緯です。
今回上記のような形式での質問を採用させていただいているのも「フォーマットを作ってそれに沿って回答してもらい、各個人の主張や価値観の差を汲み取りやすくすることで今後のジェイラボ内での議論を司会していく上での質問作成の幅を広げられるのではないか?」という意見が部内で挙がったためです。
説明がクエスチョンの何倍も長くなってしまいましたが笑、クエスチョンそのものよりもその背景を皆さんと共有することの方が大事だと思いこういった話をさせていただきました。形式として初めての試みなのでアンサーいただくにあたって答えにくい部分もあるかもしれませんが、アンサーどしどしお待ちしておりますのでよろしくどーぞ!
■Hiroto
まだクソガキなので、社会に出ることに対して「ケッ!」と思っています。 生まれたときから社会はすでに存在していて、そこに必要とされ、振り向いてもらう努力をする気に未だになれません。なんなら必要とされない抜け道を探したいとすら思います。
■imadon
「ない」に投票しました。 高校生のときに「社会ってなんやねん」と考えたことはあります。当時の結論は「社会は存在せず、あるのは自身の志向する個別のコミュニティである」というもので、それに満足していました。 なので一般的な語彙としての「社会」に必要な人間を考えたことはありません。
Day10
■ウイルスバスター・けろたん
「ある」に投票しました。 いろんな観点から「社会に必要」を定義できると思います。 エリートに必要な資質を問う質問だとすると、「有能な労働者・生産者にならなければならない」という主張とはまだ距離があるはずです。この含みを読み込むとうげげっとなってしまう気持ちは理解できるのですが、エリート主義的厭世がスタイルとしてかっこがつくのは、戦前の文豪の振る舞いがなんとなくロックなものという共通認識があるからではないかと思っています。 個人としては、労働者・生産者としてではなく、消費者としてとしての社会との関わりが大事ではないかと思います。デジタルガジェットや医療サービスなんかが典型的だと思うのですが、大規模なインフラの整備を必要とする質の高い製品を大量に供給する、というのは少数の金持ちによるエリート主義では実現できないからです。
■コバ
確かに私たちが生まれた時には既に社会は形成されており、そこにどれだけアジャストできるか勝負みたいなところに対しては私も常々疑問を感じています。だからこそジェイラボにこうして所属し続けているのかもしれませんが笑
■コバ
「社会は存在せず、あるのは自身の志向する個別のコミュニティである」というのはなかなか興味深い結論ですね。「社会」等の抽象的概念が存在する、しないという観点で思考するのがそもそも結構骨が折れるところではありますがimadon君の言ってくれたように「自身」にフォーカスすることに今回のクエスチョンのヒントはあると私は思っているので、そこにも追って触れていこうと思っています。
■コバ
いろんな観点から「社会に必要」を定義できると思います。 というのはその通りだと思います。どの視点から見るか、結局はその視点を自覚することにこのクエスチョンのヒントはあると思います。
Day11
Day12
■コバ
本書内、論点まとめ
1:「グローバル人材」という用語法は適切だと思いますか。
2:この用語法を認めることを前提として、あなたは「グローバル人材」という概念をどう定義しますか。
3:2の定義を踏まえて「グローバル人材」に該当すると思われる人物の例を挙げ、その理由を説明しなさい。時代・国籍等はいっさい問いません。
4:あなた自身は自分が定義したような「グローバル人材」になりたいと思いますか。また、その理由は?
の4つが論点として議論された。
Q:社会に必要な人とはどのような人か
——————————
上記ラストクエスチョンです。その他クエスチョン等へのアンサーもまだまだ募集しております。よろしくどーぞ!
■Hiroto
個人レベルでは存在しないように思われます。
首相レベルでさえ、急逝したら代わりができるものですし、社会の歯車という意味では全員が例外なく置換可能です。
むしろ、個人レベルに依存しないような組織のあり方が重要であると思います
■ウイルスバスター・けろたん
「社会に必要な人はどのような人か」
いま仕事として存在している職業、いま元に働いている誰か、は突然(い)なくなったら誰かしら困りそうという意味でなんだかんだいって必要なんではないでしょうか。浅い回答ですみません。
Day13
■Naokimen
「ない」に投票しました。社会に必要な人を考えるとそれと同時に社会に必要でない人も考えることになり、なんとなく嫌です(うまく言語化できませんが、感覚として)
■Tsubo
「社会」に必要な人は、生きとし生ける人全てだと思います。何故ならば、社会の構成人員は生きとし生ける人全てだからです
例え「反社」だとされる人でもその人たちなりの「社会」はあると思います。もちろん他の人にかなり迷惑なり実害なりを加えているので、公正な手続きに則り裁かれるべきだとはおもいます。(裁判所でのみ裁かれる権利も立派な人権ですし)
グローバル人材の定義
ここまでグローバル化が進んだ世界だと、どうしても定義がファジーなものにしかならなさそうです。なので、「外国の企業/人物とやり取りする」など表層を捉えて記述するしかなさそうです
この考え方の前提として、そもそも「社会に対して”必要”とされる資質を定義できるのか?議論し切ることは出来るのか?」と言うものはあります
Day14
■イヤープラグさざなみ
まとまってはいませんが、何も書かずに終わることは避けたいので、今考えていることを書きます。
①社会とは何か ・社会とはコレですと指でさすことはできない。あるとしても、私たちの頭の中にあるものだ。 ・各人がイメージする「社会」が異なる。どこまでを含めるのか。 →日本人が「社会」と言うときは日本の社会のことをイメージしていると思う。 ・「社会の歯車」という表現があるように、社会とはシステムである、すなわちいくつかの部品が組み合わさってまとまりをもった何かであるというイメージはみんなに共通していそう。そしてそのメインの構成要素が人であることも。 →人以外の構成要素は?
②必要 ・AにとってBが必要とはどういうことか →Bが無ければAが成立しないということ。 →社会にとって必要な人とは、その人の存在によって社会が社会たらしめられているような人のこと。 →個人レベルでは存在しない(Hirotoさんより)。人が一人残らず消えたら社会は成立しない(砂山のパラドクス) ・現首相が亡くなっても代わりはいる。でも、「首相」は無くならない。歯車を担当するその人自身は置き換え可能だけど、歯車そのものが無くなったら困る →いま存在している職業は、いまの社会には必要(けろたんさんより) ・既に存在してしまっている社会があって、その社会の存続に必要な要素があったとしても、その要素が全ての社会に必要なわけではない →社会をリセットして一から作り直すときに首相はいらない ・必要な人が決定されれば不必要な人が出てくるが(Naokimenさんより)、不必要な人が排除されるわけではない。社会の構成に必要な人以外の人がいても、別にいい。なんなら構成に必要最低限な人以外にも人がいたほうがいい。そういう意味では不必要な人も必要な人? ・「必要」より条件を緩くして、「与える影響が大きい」くらいだったら考えられる。
実際には「社会に必要な人は何か」という問いは、社会に意思や特定の目的があることを前提にして、それに適う人はどんな人かという意味での問いだと思います。だとすれば必要な人(「必要」をもっと緩い意味で用いて)も挙げることができて、Tsuboさんが挙げた「反社」の人たちは社会に必要でない人となるはずです。 この問いを考えるのに苦戦するのは、「社会」が抽象的でよくわからないものだからです。概念としての(一般の)社会を考えているのか、自分の属する社会のことを考えているのか、どちらも自分の頭の中にあるのでごっちゃになります。抽象概念を扱うときは、自分が経験した個別具体をもとにその概念の一般形を求めようとするが、そもそもその個別具体が中途半端な一般形を介して経験されたもので、なかなか足場が固まらないという難しさがあると思います。
■コバ
個人の能力に依存しない再現性の高い組織作り、というような話は経営学の中でも度々出てきますね。ただ、置換可能だから社会に必要な人は存在しないというのは論理の飛躍があるかと思います。あくまで置換可能というのは可能というだけで実際に置換されているわけではないからです。(Hirotoさんへの返信)
■コバ
後述しますが、けろたん君が言ってくれたようなそういった素朴な感覚が私のアンサーとも近いです。社会に必要な人とは結局「私が社会に必要だと思う人」だからです。
■コバ
確かに社会に必要な人を考える事のすぐ隣には、社会に必要無い人を考えるという事が横たわっています。それを考えることは私も感覚としてあまり気持ちのいいものではありません。(Naokimenさんへの返信)
■コバ
前提に切り込んでくるとは流石Tsubo君ですね。的を射た視点だと思います。その点も踏まえて私のアンサーを後述します。
■コバ
今自分が思考していること、難しいと感じていることに関して何がどう難しいかについて言語化することも重要なことだと思います。 そうすることで自身の思考の整理になるのと共に書いているうちに自分の頭の中で考えているだけだった時よりも前に進める可能性が十分あるからです。 そしてジェイラボは答えが出ていなくても発言できる場です。(さざなみさんへの返信)
★コバ
それでは下記、私のアンサーです。
論点:社会に必要な人とはどのような人か考えたことが →ある
理由:学生時代に「社会に必要な人材」みたいなワードが出た時に「そもそも社会に必要な人ってなんだ?」と1人で考えてました。
Q:社会に必要な人とはどのような人か
A:これを考える際にまず「社会」ということから考える必要がありますね。ここに関しては「社会とは何か」という大風呂敷を広げるというよりは、ある程度文脈に沿って「我々の一般社会、具体的に言うと子供は学校に行き、大人は働き、おじいちゃんおばあちゃんはもう退職している社会(もちろんその中には子供でも学校に行っていない子や大人でも働いていない人もいる)」を定義とまでは言わずともイメージすることで自分の思考する際や他者と共有する際にあまり支障やズレは出ないと思います。なのでその前提で思考を組み立てていきます。
それでは次に「必要」ですが、これについては「人間は生きるためにご飯を食べる必要がある」というような他の事柄(上の例で言えば「人間は生きるため」や「ご飯を食べる」のこと)との関係性の中での「必要」についてはいくらでも語れますが、アプリオリに「必要」と言えるものは無いはずです。「人間は生きるためにご飯を食べる必要がある」は正しいですがその前提の「人間が生きる必要がある」については分からないように。
そこから今回のQ:社会に必要な人とはどのような人か
に戻ってくると、ここでの「必要」とは何にとっての必要かというと「社会にとって」ということになります。しかし社会というのは上記に書いたイメージで共有可能な次元までは落としこめていますが結局「(自分が)社会にとって必要な人だと考える人」という地点に行き着いてしまい、この(自分が)という部分からは逃れられません。つまり自分が社会にとって必要だと考えた時点でその対象が「社会にとって必要な人となるはずです。狐につままれたような印象を与えるかもしれませんが私は上記のように考えました。
★コバ
それでは今回のWSはここまでにしましょう。
今回のWSの裏テーマとして「ジェイラボで目指しているのはきれいな(論理的に正しく、知識も豊富で内容も誤りが無いというような)コミュニケーションなのか?」というお話も座談会でさせていただきました。
我々は所長という1人の人の情報発信から何の因果か集ってきたメンバーです。このメインコミュニティに入られた理由は各自様々だと思いますが、所長が「論理的に正しく、知識も豊富で内容も誤りが無い」情報を発信していたから皆さんこの場にいるわけではないと思います(少なくとも私はそうです)
その人の「意志」が人を動かす場面は日常の生活でも多々あると思います。WSを行う上でも同じで、WSの内容そのものよりも「このWSを通してラボメンに何かを伝えたい!」そういった想いが人の気持ちを動かすのではないでしょうか。
それではまた次のWSでお会いしましょう。2週間ありがとうございました!
以上でログを終わります。