娘とグレーゾーン
「娘ちゃんに対して、正直どう接したらいいのかわかりません」
年長の秋、個人面談の際に娘の担任にそう打ち明けられた。
担任は私より一回りくらい年上で、園の中でも大ベテランの先生である。
「先生にどうしていいかわからないと言われて、今私もどうしたらいいかわかりません」
心の声がそのまま音になり出てしまった。
しかし、いつかは誰かに指摘されるだろうなという覚悟はあった。
私は長女で生まれ、従兄弟のなかでも最年長だったこともあり、
子供の頃から子守をする機会が多かったし、子供が産まれてからはさまざまな親子に出会うことで、我が娘がステレオタイプの子供と一味違うことに薄々気づいていた。
生まれた時の頃の記憶や一度行ったきりの場所、一度読んだ本の内容を細部まで覚えていたり、
赤子の頃から子供騙しが通用しなかったりして宇宙人を育てているような心待ちになることがしばしばあったのだ。
「そうですよね、いきなりごめんなさい」
担任は私たちに挟まれた小さな机の上に目線を落とした。次の言葉を探しているようだった。
「いえいえ。先生からみてどこが一番気になりますか?」
「娘ちゃん、園にきてもお友達の輪に入らず、すみっこでずーっと教室の絵本を読んでいるんです。運動会の練習とか、目的があれば普通にお友達とも関われるのですが、積極的に遊びに加わらないというか。あと、年少のときから発音に変化がなくてずっと発音が幼いままなので聞き取れないことも多いのが気になります」
「ああ。発音については私も気になっていました。弟が話せるようになってきてから、娘より弟の言葉の方が聞き取りやすいと感じていたところです。ちなみに家でも絵本が好きで読んでますが、本人は本を読んでいる時どんな様子でしょう?」
「特にお友達の輪に入れなくて悲しんでいるような様子ではないのですが、せっかくお友達がいる環境なので一人の世界でいるよりもお友達との関係を築くのも大切なのかなと。入学も視野に入れるとお友達の中に入るよう促した方がいいのかなと思うんですが、お母さんどうしましょう?一度様子をご覧になりますか?」
「はい。どんな感じなのかみてから、関わり方を決めたいと思います」
「わかりました。では明日の朝、お越しください」
翌日、子供達を園に送り出した後こっそり娘の教室を覗いてみた。
教室の中ではブロックとおままごとをする派閥に分かれて遊んでいた。
楽しそうに遊ぶ声が響くなか、ただ一人で本棚の横で小さく縮こまり、絵本を読んでいる娘の姿を見つけた。
担任がやってきて言う。
「いつもこんな感じなんです。大人から見ると可哀想にみえてしまうんですけど、どうします?」
娘の周りだけ、別世界だった。
娘の横顔は真剣そのもので、絵本の世界に全身で没入していた。
これだけ賑やかな教室で、まるでそこだけが異空間のように静寂だった。
娘は、自分の中に宇宙をちゃんと持っている。
齢6歳でこれだけ集中できることがあるのは素晴らしいことじゃないか。
それを辞めさせて、みんなの輪に入りなさいとは私には言えない。
「先生からみて正直、娘はどうみえますか?」
「正直に言うと、持って生まれた性格なのかグレーゾーンなのかの判断がつきません。が、発音に関してお母さんも気になると言うことだったので、療育のご案内をお渡ししておきますね」
「ありがとうございます。相談に行ってみます。教室の過ごし方なのですが、本人に悲壮感もないのでこのまま好きにさせておいてください」
その数日後、プライベートでクラスのお友達と遊びに行った。
娘がお友達にうまく話を聞き取ってもらえず、途中で口をつぐみ諦めてしまったのを目の当たりにして療育に行くことを決めた。
このまま何もしなければ自信を失わせてしまうと思ったからだ。
そこで初めて娘が構音障害であることがわかった。
やはり、担任の先生はプロである。すごい。
療育は8ヶ月から10ヶ月待ちで入学に間に合わないので通うことは諦め、
相談した結果、入学と同時に通級指導教室で言葉の練習が始められるようにスケジュールを調整した。
それから一年生の間は、週に一度通級へ通い、二年生になるのと同時に通級は卒業した。
完璧な発音ではないが、コミュニケーションに支障が出ないレベルまでに改善したのだ。
娘はこの春、五年生になる。
同年代の子と比べると発音は不明瞭だが、話すのを諦めていた娘は今ではおしゃべりが大好きである。
それが一番の収穫であったと言えるだろう。
友達関係に関しては、やはり少し難航している。授業や運動会の練習には混ざり、グループ活動はできるが特定の友達はいない。
読書は相変わらず好きで、何も言わなければ一日中本を読んで過ごしている。
源氏物語の解説本や平安文化の本、整理整頓術やキャンプ知識の本、ノンフィクションからフィクションまで文字であれば幅広くなんでも読む。
源氏物語においては、五十四帖のあらすじや登場人物の関係性まで理解している。
今の娘の学校での様子だが、担任曰く
「娘さんは基本興味のないことは入らないので、授業中時々意識が別世界に行っていますが、声をかけると戻ってきて、周りが何をしてるかわからなくて慌ててます。ただ教科書自体はよく読み込んでいるのでリカバリーでき、社会の時に正解を見つけて引っ張ってくるのがめちゃくちゃ早いです。知識を結びつけて考察する力や知識量が多いのでたまに私も驚かされます」
とのことだった。
もしかしたら診断がつくことで私も娘本人も安心するのかもしれない。
生きにくさの理由がわかり、受け止められるようになるのかもしれない。
ただ、私は人間の平均値を出し、型にはめることに対して意味がないように感じてしまうのだ。
私だって、毎日通勤電車にのって会社に行く暮らしが肌に合わず、挫折した経験があるのである種社会不適合者であると言える。
けれども、それなりにもがき、巡り巡って今、家族と職場に恵まれて私らしく生きることができている。
医学も日々進歩していくし、
今日の常識が、明日の世界でも通用するとは限らない。
私にできることは、今目の前にいる子供達にとって何が最良なのか、どのように寄り添ったらいいかを考え、その時できることを試していくしかない。
トライアンドエラーを繰り返しながら、子育ての日々は過ぎていく。
周りの目や評価ではなく、一人の人間として子供を観察すべきなのだが、親フィルターがかかるとそれがなかなか難しい。
先に転がる石は全て避けてあげたくなるし、
けもの道よりも整備された遊歩道を歩かせたくなる。
思春期に孤立すると辛いので、今のうちからお友達とうまくやって欲しい気持ちもある。
しかしそれは子供のことを思っているからというより、苦労する子供の姿をみる覚悟が私にないだけなのかもしれない。
娘がどんな子であれ、私は娘の母なのだ。
病める時も健やかなる時も。