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大学の教職(国語)の授業をしているお話 その②

教職の授業「中等教科教育法国語Ⅲ」の第3回

どうしたら「よりおもろい」になるか考えてこんな感じとなりました

ここ数日、千田是也とアングラ演劇の関係性をいろいろな書籍を見ながら考えていて面白かったから、なにか使えないかなぁとか。

意外なことに蜷川幸雄が千田是也の演出をリスペクトしていたことがわかったりしたけれど、どんなところをどう、の具体がわからない。

大学時代せっかく下北沢の近くに住んでたんだからもっと演劇見に行けばよかったなぁ。

うだうだ考えで、とりあえず「おれはかまりき」から入って、「知識は目の前の作品世界を変える体験」をしてもらおうということにしました。

問いは冒頭の画像のとおりです。中学ではよくやられる方法なので、知ってる学生さんもいるかも。そしたら「でも、あなたが最初にこの詩に出会った時のイメージは大事なものではないの?」と尋ねてみよう。

余計な知識なしに、テキストから私がその時に読み取った意味で構成されたイメージを「知識の足りない稚拙なもの」と片付けてよいのか、悪いのか、それとも「よい悪い」の二項対立ではなく考えるのか、そのへんから、詩を使った授業について考えてもらいます。

同様に「知識が目の前の作品世界を変える」体験を「温かいスープ」でも体験してもらい、最後は、魯迅の「藤野先生」でトルストイを取り上げる予定です。

「温かいスープ」では、「名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じらいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である」と最後の方にまとめられるのですが、その前までのストーリから結構飛躍した感じのある「まとめ」になっている印象を受けます。そういう印象を受けるとしたら、じつは、読み手の私が読めていない「(日本語教育での)スキーマ=明示されない意味や文脈」があるのではないか、と考えるのが読解の方法です。

そして「藤野先生」のトルストイは、教養とはなにか、について考えてもらう材料になってもらう(トルストイに失礼)予定。

ちょっと、こちらの説明や語りが多くなってしまったと授業後にとっても反省しました。教えたことが多くなるとついつい話してしまいがちです。この辺をどうするのかが課題です。

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