虎に翼 透明化された傷は治癒しない
透明化されてきた人たちにも光をあてたい。
これは『虎に翼』の脚本家である吉田恵里香さんが、作品放送中にもあえてSNSで発信し続けていたメッセージですね。
今回の吉田さんのように「ヒット作の脚本家」が作品を支えるために発信するメッセージは大きな力を持ちます。よくもわるくも。いや、悪い面なんてないはず、なんだけどね。いつの世も、良いものほどイージーに消費されてしまいがちだから。そこにストップをかけようとしても無意味だし、へたに「守るためにあえて偽悪的なゲームプレイヤーとなる」のも、それって承認欲求以上の何かがあってあえてやっていることですか、と自問自答(他問他答と置き換えても)することも必要……かもしれない。
『若草物語~恋する姉妹と恋せぬ私』(日テレ)の第1話。テレビのドラマ助監督という主人公・町田涼(堀田真由)が、ピンチヒッターでメイン演出/監督を担当することになった回のドラマで、大御所の脚本家が書いたセリフ「女は誰でも恋したい(恋するべき)」にどうしても納得できず、少し改変したセリフでのバージョンを撮影しているところを見られて、大御所を怒らせてしまう。というエピソードが登場してね。
今までもしかすると、そういう「透明化されてきた何か」への共感を番組に反映させようとしては撃沈され、心を折られた人がたくさんいた、という証明なのかもしれない。でも、虎に翼がヒットした今だからこそ、たぶんそういう「メッセージ」は今後だと、あ、そういうのもありだね、誰もが共感できるならここにフォーカスしてヒットすりゃ御の字、みたいな感じでどんどんドラマで扱われていくようになる、かもしれない。逆に、あ、そういう今だけの流行り物みたいなものはかえって苦手だからさ、みたいに逆行する流れも出てくる、かもしれない。
消費されるって、そういうこと全部コミでのことなんだよね。
オールコットの『若草物語』や、モンゴメリーの『赤毛のアン』には、私も繰り返し読む事で救われていたので、あの姉妹の物語をどんなふうに料理するのか、今後の展開が楽しみな新番組なのだけれど。テレビというメディアはナマモノだから、どんなふうに背筋を正して鑑賞すればいいのか、私もまだまだよくわからない。
自分の話になるけど、若草物語も赤毛のアンも他のたくさんの名作それもとくに十代の子がハマると楽しいものを、幼い頃は母に貸し与えられたり買ってもらったり、少しずつ自分で探して見つけてくるようになった。が、母が病気でしんどそうになった頃、読書を取りあげられ、子どもの頃に好きだった本の「女の子っぽいヒロインも、子どもっぽい冒険小説もくだらなすぎて吐き気がする。(母は)大嫌いだった」というように、娘の好きを否定することで「活を入れ」「目を覚まさせよう」とされた。母が取りあげようとしたのは本だけじゃない。娘が拠り所とするありとあらゆるもの、だったと、母が亡くなって10年以上が経ってようやく冷静に振り返ることができるようになった。あれが依存(共依存)だったのか、精神的な虐待だったのか、母自身も自分の中に昇華できない「親や姉たちとの関係」のいびつな闇を抱えていたのか。わからないよね。死んでしまった人とは話せない。
生前の母の「期待」に答えられない自分にも絶望した。あの頃は、言葉で支配したい母と無口な娘という構図にも気づかず、ヘタに体力も気力もあったから自死するという発想さえも抑え込んでどうにか生きのびた。が、母の感情的な悲鳴をようやく夢で見なくなった今頃になって、絶望が深くなってきた気がする。ま、死なないけどね。健康も体力もだいぶ怪しくなってきたとはいえ、せっかくの「生きるチャンス」を、病んだ母のあとを追ってドブに捨てたくはない。
この「最終週を見ていて気づいたテーマ」を書いたところで、あとはもう、自分のなかで風化させていくんだろうなあ、と思っていた。けど、クローズアップ現代でのキャンベルさんや安田さんのコメントを拝見して、虎に翼が「私に刺さったワケ」とまで言い切るのもまた違うけど、最後にダメ押しの確認はしておくほうがいいかなあって。
私はもちろん、母と娘の関係というものがね。自分のことだって俯瞰して見られるわけじゃないし、他の家庭のことも、外から見てわかるようなことでもない。友人の話だって、参考になんかならん。そもそも私は、自分と母の関係が「もしかすると少しおかしいのかもしれない」くらいは思ったけど、まわりを見れば母親と親友ぽいとか、母親と姉妹、みたいな仲良し親子は少なくなかった。逆にそういうのを「気持ち悪い」という健全な反抗精神もたまにはね。そういう時代。そういう環境だったのはまあ、少し特殊だったのかもしれない。
思うのは、自分が透明化される存在だった。それどころか、自分が自分を透明化していることさえ、いい歳になるまで(『虎に翼』にハマるまで)明言できずに生きてしまった。「うちの親の娘へののめり込みは、おかしかったのかもしれない」とは、大人になったあたりでなんとなく気づいていたけどね。
自分の人生は自分が好きなように使う。
これは『虎に翼』で、星のどかが口にしたセリフ。他にも、優未のことば、よねさんのことば、轟のことば、いくらでもたくさん。
そういう「メッセージ」を、クロ現でのキャンベルさんや安田さんは、自分の社会(社会観)にどう響いたかと言語化している。けど、言語化以前に、自分が透明化されていることに気づきもしない人がたぶんたくさんいる。それこそ少数派とか多数派とか、数の大小でうんぬんするのがおかしいくらい、たくさんの傷。私(=あなた)もたくさん背負っている。
無力かもしれない。それでもいいから、今更でもなんでもいい。好きなように生きよう。
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