どうしたら笑って気持ちよく生きられるの?
私が就活のグループワークでもらったフィードバックのひとつに、「チームに1人ほしい存在」という言葉があった。
その心は、私は笑い上戸でかつ笑い声が大きいので、good and moreの雰囲気をつくり、チームの議論を活性化させるのに一役かっていたから、だった。
そんな私が京都で旅をして、友人に会って、感じたこと。それは、人はどうしたら笑って気持ちよく生きられるのか?ということだった。
それ以上の意味はない生に、意味を見いだそうとする「感情」
生物的には、生まれてきたことの意味なんて、「人間という種の存続」、それ以上の何物でもないこの世界。
本当は、生きていて、もがくことなんて、生きるために必要なことを習得すること以外にないはず。
だとしたら、なぜ人は、日々こんなにもがき悩むのだろうか。
人には感情がある。
種の存続という大前提の理を超えて、この地球で生まれて、生きて、そこで何かを感じるのが私たち人間だ。
生まれてきたことに何も意味なんてないこの世界で、人には感情があり、その感情にひきつられながら、なんとかして意味を見出そうともがいて生きている。そんなふうに思う。
この同じ条件下でも、私には私なりの時間の使い方、そして生き方があるけれど、また別の人には、生まれ、育ち、経験、そこで生まれた感情によって、生に対して全く異なる意味を見出していく。
その過程自体が面白いと思うし、その感情から逃げず向き合い続けている人のことを、私は素敵だと思う。
きっとそれに向き合うことに本質的には意味なんてない。でも、せっかく生まれて得たこの時間、自分にとって意味のある時間にしない理由はなくない?と。
その一種の、吹っ切れや諦めにも似た感情や無意識がありながらも、それでも力強く、潔く、前を向いて前進し続ける。そんな人たち。
まず、感情に素直であるということは、笑って気持ちよく生きる上で、必須の考え方であるように思う。
社会を良くするという大義名分
しかし、感情に素直なだけでは人間は事足りない。人間のもう一つの側面として、「社会性」がある。
人間の歴史を振り返れば、こうして現代まで発展を遂げてきたことは、進化論に基づけば、社会を良くしようと、前に進めようと、人々が協力して現実を作ってきたからだと思う。
しかし、その、「社会を良くする」という大義名分。
それ自体は素晴らしいことだけれど、その過程でどのような手段を取ったら良い結果が生まれるのかは、その時点ではわからない。
人間という種の存続のためにしていることが、本質的に、地球にとって良いのか悪いのかは歴史が決めることだし、今ここで生きていて正解なんてわからない。
人間には社会性があって、協働してより良い未来に向かって現実を作っていくはずなのに、何が良いのか?という問いに対しては正解がない。
そこに、人の感情だけでは乗り越えられない難しさがあるように思う。
こんな残酷な世界で、どうやったら笑って気持ちよく生きられる?
人の生に種の存続以上の意味はない。
社会を良くしようと思っても、それによって本当に良くなるのか?何が良いのか?は、その時点ではわからない。
そして人は、感情を与えられ、感情と付き合わざるを得ず、日々もがいている。
こんな残酷な世界で、人はどうしたら笑って気持ちよく生きられるのだろうか?
その問いに対して私はひとつ仮説を持っている。
それは、
まず、現在の感情を一番大事にすること。
その上で、もし何か理由があって、現在の感情自体を変えたいと思うなら、過去や未来の位置づけ・意味付けを変えること。
これによって多くが解決できるような気がしている。
そもそも、この世界の残酷さを生み出している大きな要因は「感情」だ。
なぜなら、感情がなければ人間は特に悩みもがくこともなく、種の存続のために生命を維持し続ければ、生の意味は果たされるからだ。
そしてこの感情には時間軸に分けて、
1)現在
2)未来
3)過去
の3つの種類があり、
どの時間に対して感じる感情なのかによって、種類が異なると思う。
そのうち、1)現在に対する感情が最重要。
最も強烈で鮮明で緊急で、現在の行動に対して最も影響を及ぼしうるから。
しかし、それだけでは人は気持ちよく生きられない。なぜなら、感情が生自体の意味も見出そうとしてしまうから。刹那的な感情だけではなく、その行動に対して意味を欲してしまうから。
ここで、2)未来や 3)過去に対する感情が次に重要になる。
2)未来
未来に正解はないけれど、今やっていることが何につながる(未来)と考えられるか、信じられるか、思えるか。
3)過去
そしてそれをやりきった後、自分はそれまでのプロセス(過去)に対して、どのような気持ちを抱くか。
こうした未来や過去に対する感情は、未来や過去に対する意味付け、今風に言えば、ストーリーを変えることによって、それに対して抱く感情も変えられるように思う。
単なる作業であっても、未来を見ている人は読み解ける情報量が違うし、気持ちの持ちようも違う。それは、過去や未来の位置づけが人と違うことによって、目の前の現実に対して感じることが変わるからだと思う。
この感情の種類と優先度がごちゃ混ぜになると、悩む時間が増えるように思う。
このように考えると、現代ではよく言われている言説のひとつである、「好きなことを突き詰めることが大事だ」だけでは、1)現実に対する感情 しか満たされない。
おそらく、多くの人がこの言説を聞きながら、笑って気持ちよく過ごせないのは、2)3)が抜け落ちているからではないかと思う。
人間、目の前の感情だけに左右される、単純な生き物ではないと思う。
といいつつ、
1)現在に対する感情 と、2)未来や 3)過去に対する感情の両方を往復することなんて、そんなに器用にできるものではない。
だから、ぶっちゃけ、こんな感じなんだと思う。
その時点で、周りがなんと言おうと、自分が好きなことに夢中になって、そこで自分の好きを磨き続け、その時は圧倒的に自己中でエゴで、「生に対する意味」ほどには到底及ばないかもしれないし、ましてや、社会を良くするなんてそんな大それたことにはつながらないかもしれない。
けれど、好きなことなら続けられる。興味のあることなら夢中になる。気づいたらその視点から世界を切り取って見ている。それが人のセンスになり血肉になる。
そして、もし、時代がそのセンスや考え方を注目してくれたら、社会のためになる。社会で活躍できる。
居心地が悪く気持ちの良い納得感と切迫感
東京の恵比寿で過ごして2年半。
スタートアップやベンチャーが割拠する渋谷のカルチャーに染まった明治通りにあるオフィスで、すっかり東京の時間やスピードに染まりきった。
今日明日をどう乗り切るか。半年のミッションは何にするか。1年後は何をしていたいか。
日々必死にもがいている私には、そのどれもが緊急で重要なこと。意味のない世界を生きるにあたって、意味を作る営みだから。
でも、京都に来て、ゆったりと流れる時間に身を置いて、いろんな人と話していろんなことを感じた。それは、感情に素直に向き合い、時と場合よっては過去や未来の位置づけを変え、柔軟に変化し続けていくことが大切だということ。
そして、もっと知らない世界がたくさんあるということ。もっともっと知らない世界に飛び込みたいということ。
達成したいという欲望と自分を俯瞰する視点と吸い寄せられる好奇心にかき乱されて、居心地が悪いような気持ちいいような、むずむずする切迫感と一種の納得感に、身が包まれた。
いつまで経っても、理想の自分に現実の自分は届かなず、もがき苦しい時間もあるのだけれど、でも感情や状態もすべて受け入れて、そんな等身大な自分にも関わってくれる周りに感謝して、そしてつくりたい未来を、つくっていくひとりにわたしもなれるよう、もっと前進したい。
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