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ソニーで学んだ大事なこと

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海外勤務28年、大事なことはだいたいソニーで学びました。
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#社長

群れからはぐれるたびに、人生は展開する。反対を押し切ってする異動であれ、休学であれ。

群れからはぐれるたびに、人生は展開する。反対を押し切ってする異動であれ、休学であれ。

20代後半から30代前半にかけて、香港・中国に6年間赴任していた。
仕事は中国の工場にVCDプレイヤー向けの電子部品を販売する仕事だった。
6年の間に、ゼロから数百億円のBizに成長し、私は、南中国の責任者として、深圳事務所の所長をしていた。

そして、出元であった電子部品の営業本部に帰任した。
今度は、IT用CD-ROMやDVD-ROMの光学部品を、台湾や韓国のITメーカーに販売する仕事についた

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【海外赴任】生まれて初めて社員を自分で雇った話し。

【海外赴任】生まれて初めて社員を自分で雇った話し。

中国工場への電子部品の販売は、VCDの出現とともに、明らかにビジネスがtake offするだろうというのが見て取れた。
そして、これまでの代理店の深圳事務所を拠点とする販売から、いよいよ深圳にソニーの部品事務所を開設しようという話しになった。

ソニーは、当時既に北京に中国代表を置いており、AV家電の販売事務所が北京、上海、広州に開設済みであり、私の所属する部品部隊も、上海には事務所を開設済みであ

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【海外赴任】深圳のバブルを目の前で目撃し、つかの間のチャイニーズ・ドリームを楽しませてもらった話し。

【海外赴任】深圳のバブルを目の前で目撃し、つかの間のチャイニーズ・ドリームを楽しませてもらった話し。

香港返還1997年からミレニアム2000年頃にかけて、中国・深圳はかなりのバブル状態であったと思う。
どんどん新しい高層ビルが建ち、街の人口も10年間で数十万人から3百万人にくらいに急増していた。

私は、中国工場にVCD (CDフォーマットで映像がでる規格)プレイヤーを製造するのに必要な、キーデバイス (光学部品と半導体)を販売していた。

1993年香港に赴任し、中国工場を訪問し始めた頃の中国

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