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短編小説:ポカほら噺 第三話 湯けむり郵便

 浅野温泉の奥、坂城の湯を出てすぐのベンチのそばに、ひとつの赤い郵便ポストが立っている。
 それは昔ながらの郵便差出箱1号(丸型)。もうずいぶん古びているが、今も都度塗装を施されきちんと使われている。
 ポストの表面には、温泉の湯気と時間が刻んだような、柔らかい錆がにじんでいた。

 ある日、杉山(60代・会社員)は、温泉帰りにそのポストの前で足を止めた。
 ベンチに腰掛け、手に持った一枚の手紙を眺める。

 「……もう届かないのにな」

 そう呟きながらも、彼はそっと封筒を撫でた。

 杉山が持っているのは、亡き妻に宛てた手紙だった。
 彼女がまだ生きていた頃、この坂城の湯をとても気に入っていて、夫婦で何度も訪れた。

 「今度は二人でゆっくり来よう」

 そう約束していたのに、妻は病で倒れ、その願いは叶わなかった。
 杉山は、手紙に「また一緒に来たかった」と書き、ポケットにしまったままだったのだ。

 「こんな手紙、どこに出せばいいんだろうな……」

 杉山は苦笑しながら、ポストを見上げた。

 すると、ふとあることに気がついた。

 ポストの投函口のすぐ横に、一枚の古びた葉書が引っかかっていた。
 手に取ると、それは色あせていて、差出人の名前はにじんで読めない。
 だが、宛名だけははっきりしていた。

 「坂城の湯にて待つ——」

 それだけが、まるで誰かの願いのように書かれていた。
 杉山は驚き、周りを見渡したが、誰もいない。
 ただ、温泉の湯気がふわりと立ち上っているだけだった。

 杉山は静かにポストを見つめた。

 「もしかすると、ここには届かない想いを預かる役目があるのかもしれないな……」

 そう呟くと、手に持った手紙をゆっくりと投函した。
 カタン、と封筒がポストの中に落ちる音がする。

 きっと、どこかへ届くだろう。
 それが「どこ」なのかは分からないけれど、この坂城の湯に、きっと妻の気配はあるはずだ。

 杉山はもう一度、ポストを見上げた。

 その時だった。

 ポストの表面に映る自分の影の隣に、もうひとつの影がふんわりと揺れた。

 振り向いても、そこには誰もいない。

 だが、ほんのわずかに、妻の好きだった湯の香りがしたような気がした——。

おわり


本作はフィクションです。一部の登場人物、団体、地名、出来事などは実在するものをモデルにしている場合がありますが、物語自体は創作であり、実際の出来事や人物との直接的な関係はございません。偶然の一致があったとしても、それは全くの偶然であり、特定の実在の個人や団体を意図的に描写・批判するものではありません。

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