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#420 現代に通ずる学びの宝庫。二宮尊徳「報徳記」を読んで (1/3)

いかがお過ごしでしょうか。林でございます。

一度は自分で原作を読んでみたいと思っていた、二宮尊徳の弟子たちがまとめた「報徳記」を読み終えました。

小学校で見かけたあの二宮金次郎像が、二宮尊徳です。「親孝行・勤勉」などのイメージを教えるために利用される節がありますが、全国600を超える地域復興を成し遂げた業績や思想について十分な説明が行われず、銅像のように子供のままで成長を止めたのは摩訶不思議です。

明治以来の国定教科書に最も多く登場したのが明治天皇で、それに次ぐのが二宮尊徳(金次郎)とのこと。あの銅像イメージとは異なり、「報徳記」で描かれている二宮尊徳は身長182cm、体重94Kgの偉丈夫です。
晩年、病がちになっても、三度の飯の前には酒を絶やさず、三食とも柔らかな麦飯を1杯半〜4杯食べ、病床に慣れることを拒否し続けたそう。

そんな二宮尊徳の影響は、生前には仕法を実施した関東地方を中心に、福島県、静岡県を加えた地方にとどまっていましたが、明治時代となり弟子たちがまとめた「報徳記」などの著述により、明治10年代には宮内省の手によって印刷・頒布されて普及しました。

「大きな収穫や業績も、全ては小さな努力をコツコツと積み重ねるところからしか始まらない」という「積小為大」や、「収入に応じた一定の基準を決めて、その範囲内で事業や生活をする」という「分度(ぶんど)」という考え方を残しています。

そんな二宮尊徳の農村立て直しの財政再建策である「報徳仕法」を解説する読み物は少なくありませんが、やはり自分自身で読解した内容をもとに文章の形で再構成することで理解が進むため、私として特に印象に残ったエピソード等を中心に、前編・中編・後編の三部作に分けてまとめていきます。


自身の試行錯誤により得た二宮の思想

不遇な境遇から自得した物事の真理

江戸時代後半を生きた二宮尊徳(金次郎)は、1787年7月に三人兄弟の長男として小田原に生まれます。金次郎が14歳の時に父親が、16歳のとき母親が亡くなり、金次郎は百姓の従兄弟の万兵衞に、弟二人は母方に引き取られ、兄弟それぞれ別れて生きていくことに。

万兵衞はケチで薄情だったため、金次郎は大変苦労したそうですが、毎日農業の手伝いをし、夜更けまで働いたそうです。金次郎が徐々に考えるようになったのは、「小百姓であっても、文字を書く、算盤を使うことの心得がなくてはならない」ということ。そこで、農業後に勉強がしたいと万兵衞に懇願したところ、「暗くて、灯りがなくてはやれないだろう」と言われました。

仕方がないので、灯りのための油の調達を考えます。農業手伝いの合間に、荒地に少しずつ菜種をまき、よく手入れすれば収穫もあるはずと考えて手入れしてみると、相当に成長。油屋に行き、菜種一升と油2合を交換したからところから、「小を積んで大を為す」、現実的な蓄積の道を自ら生み出しました。

自家の復興で学んだ「理財法」

二宮尊徳の本家は1797年に絶家となり、母方の実家も衰運に向かったことから、自家の復興は尊徳に委ねられました。

困窮下での自家の復興から学んだのは、「いかなる事業にも元手がいる」ということです。父が質に入れた田を三両で受け出し、2年後には貸付を増やし、利息を得るという理財法を確立しました。元手となる資金を決して消費してしまわずに、余裕があれば田畑を買い入れ、小作に出すという投資に回していたんですね。

大河内薫さんと木下斉さんの対談の中で、北海道の観光事業について触れられており、徴収した宿泊税の使い方として「公共交通機関への補助金」「ガイドの育成」「観光客の行動履歴のビッグデータ活用」がズレてる、という話がありました。
そうではなくて、観光税で集まったお金でいい土地を抑えて、その土地を貸し出すことでさらなるキャッシュインに繋がる、という話でしたが、まさしく元手を投資に回して利息を得る理財法は、これに該当します。

服部家への奉公時に確立した「五常講」

1812年には、小田原藩の家老、服部十郎兵衞の家に奉公し、元利ともに返済できなくなった借金返済と財政再建を担当します。収入を見積り、分に相応した支出を差し引き、「食事は飯と汁だけ、衣類は木綿だけ、不必要なことを好まない」の三箇条を徹底した5年後には、借金を全て返済し三百両の金が余るほどでした。

ここでも、自家の小作米のみならず、村民の委託を受けた米を売り込むために小田原の商店などにも出入りしたりと、貸借や売買による利益獲得のノウハウを身につけました。

尊徳に金を預ければ確実に利子が増えると評判となったのは、金の立替をしているうちに「五常講」と呼ばれる貸借の連帯責任制度を構築したからです。これは、300両を3組に分けて1組100両とし、100両を100人が連名記帳で1両ずつ100日借り、無利息で融通するものです。1人が1両延滞したら他の者が弁償し、100両揃わなければ、次の貸付を停止するという仕組みで、道徳心を担保とした金融制度でした。

思想を複数の復興事業に応用

桜町三ケ村の復興計画

当時の小田原藩主で、明君と知られた大久保忠真は、二宮尊徳を幕府に登用したいと考え、実績作りのために尊徳を疲弊のドン底にあった桜町三カ村(現在の栃木県真岡市)に派遣し、復興を命じます。

尊徳は、そこから10年の時間をかけて復興事業にあたるわけですが、ここでも村民一人一人の借金や家族人数、食料在庫の数字をおさえて、生産共同体の成員として農民を全体的、機能的にとらえる試みを繰り返しました。

例えば、百姓に村一番の働き者を選ばせ、最高点から数名に農具を与える、といったインセンティブ設計です。褒美は無利息の金融、農道への近道としてかける橋の費用、新築の家などもありました。士気を高める報酬、生産実践の場で個々の農民の具体状況をつかむ現場優先の姿勢が見て取れます。

さすがと思わされるのは、これら取り組みを知らない土地でやってることです。しかも、幕府の人間でもなく、百姓出身の尊徳のことをよく思っていない村人も多かったそうですから、まさに逆境の中での組織改革のようなチャレンジです。

現代の会社員人生に置き換えるならば、赤字続きで倒産寸前の会社で、やる気のない社員ばかりの中で外様として歓迎されないところをスタート地点にして、組織改革を成し遂げて業績を黒字転換する、みたいな話ですからね。

結果として、10年の任期満了を迎えた頃には、それまでの人口流出が止まり若干増加、年貢収納実績は2倍となり、全国各地で生産不振で天保の改革が進められていた中で驚異的な成果となりました。

そんな二宮尊徳も、勤勉で多くの褒賞を得ていた百姓が家族10人と逃亡したり、二宮に反感を持つ役人と対立したり、大雨で収穫激減の時期を迎えたりで、辞表を江戸に送り、川崎大師参詣後、3ヶ月失踪して21日の断食をしていた等、人間らしい一面が見えたのも、親近感が湧くエピソードでした。ちなみにこの時は、三カ村の農民たちが探して迎えに来てくれて、大いに喜んだそうです。

実績を買われて幕吏登用

桜町復興の方法を知りたいと諸国の諸大名も復興の方法を尋ねてくるも、二宮は「もとよりその任ではなく暇もない」と固辞します。

しかしついに、実績を買われて幕吏に登用されると、他にも多くの地域の再生に携わるように。
さらには、桜町以降の仕法の成績を具体的に列記して、幕僚での仕法の可能性を強く主張しました。まさに経済発展と財政再建を同時に行うところに凄みがあります。仕法費用を幕府に期待せず、各仕法地に貸し付けた報徳金を集めて幕府に預け、その金利で更なる仕法を行うといった、先行投資による取り組みのスケールアウトを体現しました。

身体の衰えも感じて始めた人生後半では、幕府の意向もあり、特定の土地を調査して個別の仕法を組み立てるのでなく、どのような土地なもあてはまる普遍的な仕法の標準を作ることに情熱を傾けました。この「二宮仕法」作成の期間は、後継者育成の期間となり、以降、門人たちが地域復興事業にあたるようになります。

二宮尊徳の人生から分かること

若い時には、個別具体の案件の中で試行錯誤して自分なりの手法・考え方を確立し、期待をかけられて与えられたステージで周囲を納得させる実績を作り、思考を広げて取り組みをスケールアウトする・・というキャリアであることが分かります。

二宮尊徳の名が現代まで伝わる象徴的なキャリアは、私はやはり10年にわたる桜町復興だと見ています。
途中、心が折れそうになるエピソードもあるのですが、初めから逆境、途中もトラブル続きでも、最後までやり切って他人を納得させる実績を作りました。

コアな専門性を作る、というのは、資格を取るとかではなくて、周囲が一目置くような実績を何かの分野で作ることです。別に日本全国から凄いと思われなくても、「この分野といえばこの人」くらいの実績を業界・社内で残すこと。そのような実績を軸にして、思考を抽象化することで、取り組みがスケールアウトしていくことがよく分かります。

明日は、より個別のエピソードを取り上げて、私が感じたことをご紹介します。(中編に続く↓)


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林 裕也@IT企業管理職 × 探究・情報
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