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#257 「一般人」、「普通の人」なんていない
いかがお過ごしでしょうか。林でございます。
今日は、「一般人」や「普通の人」なんていない、という話をしたいと思います。
この話をしようと思ったきっかけは、尾石晴さんがXで、Voicyで「普通の人インタビュー」の告知内容を見て、本当にその通り!て共感したことです。
「私は普通なんですよ」 とみなさん言うけど よくよく聞いたら、とても興味深い人生! 普通=自分は当たり前にやってるから大したことないと思ってることなのかも。
以前、木下斉さんの企画で「ジブン株式会社RADIO」というリスナー同士の対談放送企画をやってみて気付いたのですが、あらゆる人の人生に耳を傾けていくと、本当に十人十色で面白いです。
当時、各対談のレビューをまとめていたのですが、今振り返っても、全員違ったバックグラウンドを持っていて、自分では選択しなかった道を歩まれているので、一人一人の人生の小説を覗いているような、そんな感覚になれます。
「今の仕事がなくなったらどうしよう?」と不安に思われている方もいるかもしれませんが、こんなに多様な人生があって、みんなそれなりにちゃんと生きて来れているのを考えると、今の仕事がなくなったところで、別の選択肢なんて山ほどあるんだと感じます。
みんな、周囲の環境は「見えているもの」で、それが「当たり前」になっているから、それを「普通」だと感じているのだと思いますが、経験したことのない「見えていない」世界にも同じようにその場所を「普通」だと感じている人がいる、ということなんでしょう。
だから、みんな自分の世界は「他人に誇れるものはない」と卑下しがちですが、それを知らない人にとっては、興味深い生き方要素が詰まっています。
ネットの普及により、個人が誰でも記事を書いたり音声で発信できるようになった現代、「普通の人」「一般人」というのは、さらにいなくなっているのを感じています。
「一般人」の対義語は、「有名人」や「著名人」です。
でも、もはや「一般人」と「著名人」に明確な違いはなくて、その間の壁が溶けてしまっているの現代ですね。
「著名人」、「一般人」の区分けは、単一マスメディア時代の考え方
私は小学生の時に「お笑い芸人」になりたい、と言っていました。
私の小学校では、毎日給食の時間に「昼の放送」という校内TV放送の仕組みがあったのですが、小学5年生の時に放送委員会に入り、友人と「伊東ブラザーズ」という漫才コンビを組み、毎週金曜に全校生徒に漫才の番組を届けるという、今考えるとなかなか自分を追い込むチャレンジをしていました。笑
(特に、毎週木曜になると、明日のネタがまだできていない!と慌てて、放課後に友人と台本を書いて練習していました)
その時考えていたことは、大人になったらテレビに出たい!ということ。
テレビのようなメディアが、スポンサー企業からの広告費で成り立つ、企業を顧客にしたビジネスという理解はあるはずはなく、「テレビに出ている人=著名人、テレビを見ている人=一般人」という認識が知らぬうちに刷り込まれていたのだと思います。
今となれば、テレビは多くあるメディアのうちの一つで、テレビに出ていなくても、ある分野の専門家とか、業界で多くの実績を残している人も含めていわゆる「著名人」と思える人はいるでしょう。
しかし、ここがグレーなところで、誰もがある日朝起きたら「あなたは著名人になりました!」と認定されるなんてことはないですよね。
そもそも著名人というのは他者評価なので、「私は著名人です」なんて言う人がいたら「この人大丈夫かな」となる。
だから、「著名人」というのは、明確な定義があるわけではないですよね。そうなると「著名人ではない人=一般人」というのも、明確な定義ができないはずです。
「テレビに定期的に映っている人=著名人、テレビを見ている人=一般人」くらいの区分けであれば、ある程度区別することができた時代もありましたが、メディアが多様化した現代において、私が子どもの時に抱いていたこの定義は、全く通用しなくなっているということです。
あるのは「発信者」か、そうでないか
それでもなお、現代においても、多くの人から「認知されている人」はいますよね。
あるいは、数は多くなくても、あらゆる分野で「この分野といえばこの人!」と思わせる人。
そういう人に共通しているのは、書籍を出版するなり、音声配信をするなり、論文を発表するなり、ある記事の連載を書くなりして、何らかの「発信」活動を行っている、ということです。
考えてみれば当たり前で、「この分野ではこの人!」と認知してもらうためには、まず知られる必要があります。
「多く人に知られること」を主目的に置く必要は全くありませんが、自分が何かやりたいことがあって、それを届けたい人に届けるためには、当たり前ながら「誰かに認知してもらう」ことが入口にあります。
だから、どんなに良い取り組みをしていても、発信しなければ、もっと言うと、情報過多の時代において、発信し続けなければ、誰の目にも止まらないone of themの情報として、消費されて終わってしまいます。
また、自分なりに意見とテーマを持って、発信し続けることが大切。
いきなり「質」を目指そうとしても失敗しますから、「質」を上げていく過程において一定の「量」も必要になりますが、その中でも「自分はこう考える」という意見をストーリーとして組み立てることが肝要です。
発信するとは、世の中に対して「問いを立てる」ということで、当然100人全員が同じことを考えて生きている訳ではないので、反対意見も出てくるでしょう。
でも、多くの人が「それはそうだよね」で消費されて終わってしまう発信だとちょっと勿体無くて、できるだけ具体的な行動に繋がる発信にこだわるほうが、せっかく同じ時間をかけるのであれば得られるものが大きいですよね。
そして、具体的な行動を変える相手は、まずは自分自身でよいと思います。
「こういうことを言う人もいるから、本当はこう思うけど、自分を捻じ曲げて発信しよう」となってしまうと、捻じ曲げたパワーが大きく働きすぎて、自分自身を変える、自分を理解することさえできません。
そうなると、何のために発信してるんやろ?になってしまいますよね。
私は、堀江貴文さんや山口周さん、楠木建さんなど、「自分に素直に生きていてカッコいい!」と思える方が何人かいらっしゃいますが、悉く発信者ですね。
発信者だからこそ、認知している、というのもありますが、数多くいらっしゃる発信者の中で、特に共感できる部分が多いわけです。
特に山口周さんは、電通時代に「大手広告業界で収入が高い構造」を理解するのと同時に、「このまま高収入が続くのは難しいのも理解した」ことがきっかけで、自分以外のものに働いてもらうことを目的に10年後までに書籍出版する、と決められたそうです。
書籍出版に至るアプローチとして細々と発信を始めたそうですが、はじめの数年間は全く誰からも読まれなかったとのこと。
しかしある時、山口さんの発信が面白いと出版社の方が目を止めてくれ、そこから多くの面白い書籍を出版するに至りました。
ここに「発信」のヒントが2つあると思っています。
1つは「誰からも求められなくてもやり続けること」。
もう1つは「はじめから10年続ける気持ちで始めていること」です。
どうしても、今日、明日の短期的な出来事や感情に揺さぶられがちですが、中長期目線で本当に必要なことは、短期的には効果が見えにくいのが世の常です。
本当に必要なことには特効薬はなく、小さなことを地道に泥臭く続けていくしかありません。
自分は「一般人」と認識しているけれど、小さなことでも自分でやってみたいことがあるならば、その意思を誰かに発信するすることがスタートですね。
それでは、今日もよい一日をお過ごしください。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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