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#422 現代に通ずる学びの宝庫。二宮尊徳「報徳記」を読んで (3/3)
いかがお過ごしでしょうか。林でございます。
二宮尊徳の弟子たちがまとめた「報徳記」を読み終え、自分なりに印象的だったエピソードを中心に全3部作でお届けしています。
前編では、二宮尊徳の生涯を振り返り、そのキャリア全体から、いかに自分ができることを増やしていくのか、人徳を積んでいくのか、という点をまとめました。
中編では、尊徳のキャリアを広げる転換点となった計10年間にわたる「桜町三ヶ村復興」を取り上げ、四面楚歌の中でどのような思考・行動をもって、村民の心を掴み、再生に至ったのか、という具体的なエピソードに触れてご紹介しました。
後編となる今回は、二宮尊徳が、その後晩年にわたり全国計600地域の財政再建・荒地の開墾事業を成し遂げていくところから、いくつかの印象的なエピソードを取り上げます。
ここまで具体・現場の最前線から事業の法則を見出していけるのか!と理解すると、私たちが普段向き合っている個別事案からも、より多くのことを学びに変えられるはず、という気がしてきます。
ニッチなネタではありますが、ぜひ最後までお付き合いください!
テイカーになると、人は知恵が出なくなる
下野国芳賀郡桜町(現在の栃木県真岡市)の復興事業の成功は、尊徳の能力を他地域に知らしめるには十分な実績でした。以降、多くの地域から人がやって来て、「ぜひ私の地域でも報徳仕法を実行してほしい」という依頼を多数受けることになります。
しかし尊徳は「忙しいから無理」とひたすら断ります。実際、引き合いが絶えず、現在取り掛かっている再生事業だけでも手一杯というのが実情ですが、とにかく断りまくっている尊徳の姿が山ほど出てきます。
一方、頼む方も必死です。再三にわたり尊徳を訪問し、報徳仕法を受けて復興出来た地域の一つが、常陸国真壁郡青木村(現在の茨城県桜川市)です。
以前は幕府の直轄領で、非常に繁栄した裕福な村でしたが、宝永年間(1704〜11年)に川副氏の知行所になった地域です。村の西北を流れる桜川を堰き止めて灌漑用水としていましたが、大雨のたびに洪水となり、用水が枯れ果てて耕作できなくなりました。幕領の頃は、人夫3,000人余りを賦課し、数百両の金をかけて堤防を構築していましたが、宝永以降は自力ではどうにもならず、田は耕す術を失い、怠け者や博打打ちが多く、どの家も窮乏しました。
青木村の村民が尊徳に復興のお願いに行った時、尊徳は次の趣旨の指摘をしました。
「荒廃の原因は、大雨で用水を失ったからというが、本当にそれだけなのか?なぜ田地を畑にして生計を立てないのか?村人は用水の欠如を理由に、肥えた田地を放置し、博打を好んでいると聞いている。そんな地域で仕法を行なっても復興などできない。二度と来るな」
元々幕僚下にあったということで、大雨で耕作が出来なくなっても、政府資金で復興してもらっていた、というのが当たり前となり、当時の村人も思考停止していたのでしょう。「自分たちは悪くない。外的要因のせいだ」と考え、自ら知恵を出す癖を失ってしまったのだと捉えました。
こういう話、今も沢山ありますよね。外からの補助金や支援がなくなったら自活できない事業なんかも、同じ話です。
青木村の村民は「心を改めます」と応じますが、尊徳は「何の保証もない。途中でやめるくらいなら、初めからやらないほうがいい」と伝えます。それでも村民は引き下がらないので、「であれば、冬になると火事の原因となると聞く茅を刈るところから始めよ。私に茅の使い道があるので、それを買い取る」と伝えます。
村人は喜んで茅を刈ると、報徳はそれを高値で買い、村人は喜びました。そして、尊徳は、村で雨漏りのする屋根の修繕を行い、茅葺きの屋根を川の上に作り、それを川に落として洪水を防ぐなどして支援しました。
このような営みを通じて、村人も改心し、開墾に力を尽くすようになったため、生産は拡大、租税も倍に増えて村は完全に復興しました。
藩政は「取ること、施すこと」のいずれを優先するか
1842年、尊徳を幕府に登用するという命がついに下ります。
相馬藩家老の草野正辰は、江戸の大久保邸に仮住まいしていた尊徳を訪問し、「国を治める方法を伺いたい」と問うたところ、次のように話しました。
「国が衰弱する原因は、藩政の基本となる分度が明らかでなく、出費に節度がないこと。領民に過重な租税を課して窮乏し、怨みの心が起こる。領民から多くを取り立てようとしてかえって租税は減少し、藩費は不足。商人から借金するも、元利は倍増して甚だしく困窮し、ついにはどうすることもできない状態に陥いる」
「そのため、衰えた国を豊かにしたい時は、必ずまず仁政を行い、領民の難儀を救い、その苦痛を取り除いて安心して生活ができるようにすることが先決。藩の政務は、要約すれば『取ること、施すこと』の二つに尽きる。取ることを優先すれば、国は衰え、民は窮乏し、怨みの心が生じ衰弱する。施すことを優先すれば、国は栄え、民は豊かになる。領民はよく帰順し、上下とも富み、百代を経ても国家はますます平穏に。施し与える道を厚くすれば、喜んで従わないものはない」
尊徳は、自身の地域再生事業を通じて、政治の本質をこのように捉えていたわけですね。取ることではなく、施すことを優先する、という考え方は、政治だけでなく、事業成功の秘訣であるとも見ていました。
千葉県北西部の手賀沼から川を掘り印旛沼と合流させ、太平洋に出る水路を作り利根川の分流とし、そこに船を通す開拓事業を担当します。そんな壮大な事業の必要経費、年限はどれくらい必要か?と問われた際に、「大事業を成功させるには、経費上限や年限を設けず、成功するまでやるしかない。そんなものを設定すると、難所で人々は困窮し、ただ利益のみが優先され、義の心を忘れて半分も進まないだろう」と答えるんですね。
成功させるには、印旛沼の堀割よりも先に、万民をいつくしみ育てることが先。大事業を為す人々の不安を取り除き、生活に安心できれば、人々は大いに喜び、子孫に至るまで恩に報いる気持ちを抱く。この事業に力を尽くせと命じたら、力を尽くさないことを恥だと感じるようになる、という理屈です。
組織マネジメントそのものですよね。この事業・チームに貢献したい!と感じるような働きかけが先であり、この基礎さえ固めれば、どんな難事業も成せる、繁栄はすでに手中にある、という考え方です。
つまり、Give firstなんです。今の自分の立場に置き換えるなれば、プロジェクトの成功のためには、メンバーが安心して仕事ができる環境を作る。いいコミュニケーションを作る、が先ということ。遠回りに見えるかもしれませんが、特に長い時間かけて取り組む大事業であれば、安心できる環境作りが最優先であることを説いてくれています。
長期視点には、順番が大事
大事業を為すには長期視点が重要という考え方は、尊徳が相馬藩(現在の福島県相馬市)の分度を確立した際に作成した、全三巻にわたる計180年の復興計画書にも表れています。
事をなそうとして成功しないのは、速成を欲し、一挙にその業を成し遂げようとするからであるとし、何万の荒廃地を開こうとするのも一鍬から始まり、何百の村を復興するのも必ず一村から始まる、と説きました。まさに積小為大。
また、小さなことの積み重ねには、順番が重要であると伝えています。
尊徳による相馬藩の復興支援が決まった際、どこから着手するか一村を選ぶように指示された領民は、夏も気温が上がらず、冬はもっとも寒い草野村を選択します。ここは、穀物が実りにくく、貧民が多く、戸数は減少していた場所だったからです。
それを聞いた尊徳は、順序が逆である、と次のように叱ります。
「善人を抜擢して大いに賞を行うときに、不善のものも善人に感化される。だから、領内でもっとも人々の気風がよく、郡中の鏡となるような村を選ぶものだ。復興が難儀な場所から取り掛かっても、他の村を5つ、6つ復興するより経費がかかり、また他村が教化されることもない。こんなことも分からないのは、仕法を信じていないということ。二度と来るな」
結果的に相馬藩は、分に応じた米や金を出し、誠意を見せて何度も懇願し、事業開始後わずか4年で復興を遂げます。小を重ね、複利の効果を持って取り組みを大きくしていくためには、取り掛かる順序が非常に重要であることを教えてくれます。いきなり分に合わない大事業から取り掛かっても、金だけかかって取り組みは広がらないことを示唆しています。
分に合わない再開発事業、オーバースペックな製品の導入・・・現代を生きる私たちにも耳が痛い教訓ではないでしょうか。
以上、全3回に渡り、ご紹介してきた「報徳記」の印象的なエピソードでした。
かなり抜粋していますが、他にも多くの教訓があります。ご興味ある方は、ぜひ、人生に一度は読まれてみると良いと思います!
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