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#445 先生とのミスマッチ問題。合わない人と上手くやるより、合わせなくてよい仕組みを考える

先日、小学校のお子さんを持つ親御さんたちの話を聞く機会がありまして、「学校の先生×子ども」あるいは「学校の先生×保護者」の相性が合わないケースは、思っていたよりも多く存在していることが分かりました。

「学校の先生×子ども」の相性が合わないケースでは、子どもが学校に行きたがらなくなってしまうこともあるようで、学年が変わって担当の先生が変わったらまた元気に行けるようになった、という話までありました。

「学校の先生×保護者」の相性が合わないケースでは、例えば算数の問題で答えは合っているのだけれど、数字の表記が少し曲がっていたために×を付けられた。保護者がそれに対して、「○じゃダメなんですか?」と先生に聞いたら、「お子さんの伸び代があると思って×にしたんです」という先生から回答があり、何だか噛み合わずにモヤモヤした、という話でした。

今回は、保護者視点からの話を中心に聞いたのですが、先生視点で見たときの保護者とのコミュニケーションの難しさもありそうです。
何せ1クラス30人とかいれば、保護者の考え方も十人十色。「あちらを立てればこちらが立たず」で、全員が納得できるやり方など基本ないでしょう。

私が周囲の話を聞いていて、よくある話だと感じるのは、「マイクロマネジメント」に対するスタンスの違いでしょうか。

とある保護者は、「先生にきっちり子どもを管理してもらったほうが安心する」と言い、別の保護者は「先生に筆箱の鉛筆の数が5本でないといけないとか、消しゴムは白色でないとダメだとか、そんなことまでルール付けされたくない」と言う。

まぁ私の価値観としては、「鉛筆の数なんてどうでもいいし、消しゴムが白色でないとダメとか本気で言ってんの?」て感じではあります。しかし、一部の保護者から「学校でルールを決めてください」と言われ、学校側もイチイチ個別対応もしてられないから、ルール化してしまうことがあるとのことでした。

この「何でもルール化問題」の弊害はまた別で詳しく取り上げるとして、学校・先生の考え方と保護者の考え方にミスマッチが起こると、双方しんどいですよね。

そもそも、社会ではインクルージョンだ!多様性だ!と言われている中で、「固定的な人間関係」を前提としたシステムというのが、どうも問題の根源にあるようにしか思えません。

「いいと思ったらやってみる、ダメならやめる」の考え方は、人間関係にも適応されるべき考え方ではないかな、と。
今日は、学校における「人間関係のミスマッチ問題」について、私が感じていることをまとめていきます。


オルタナティブがあるだけで救われる

人間関係の問題で一番苦しいことは「逃げ道がないように感じること」ではないでしょうか。

例えば、「担任の先生と子どもの相性が合わないケース」では、「クラス替えがある2年後までは、同じクラスで我慢するしかないのか。。しかもクラス替え後も、次は子どもと担任の先生の相性が合うとは限らない」という気持ちが、親と子どもをさらに追い詰めてしまいます。

「担任の先生と相性が合わないから、別のクラスに変えてください」というのも、日本ですぐ実現するのは、なかなか難しそうですよね。

大学の授業のように、取りたい教科を選択する、受けたい先生の授業を全て選択できるようにする、みたいなことが出来れば、固定的なクラス内でのミスマッチに苦しむことも減りそうです。しかし、いきなりそこまで劇的に変える、というのはなかなか現実的とは思えません。

2人担任制が取られている学校では、ミスマッチ問題が多少緩められている面もありそうです。
2人担任制でも、正・副のような形でしょうから、この2人の先生の間に圧倒的なパワーバランスの違いがあると実質的にあまり変わらないかもしれませんが、それでも子ども視点・保護者視点からは、相談しやすいほうに相談する、というオプションがあるだけでも1人担任制よりかは救われるのではないでしょうか。

先日も書きましたが、社会に出てからのほうが、やはりこの辺りの自由度はグッと上がりますよね。

今いる部署が合わなければ、異動も出来るし転職も出来る。そんな簡単ではないよ・・という声も聞こえてきそうですが、「選択肢がある」ことが大事なんです。人間関係の袋小路に入ってしまい、もうどうにもならない!と感じてしまうと、とにかく辛い。

人手不足でとても2担任制など取れないとか、色々と事情もありそうですが、ここまで人の価値観も多様化している現状において、「人間関係を選べるシステム」に変えていくことってとても大切。
専用の相談窓口を作ることも大切なのですが、普段から「人間関係を冗長化しておく」、できるだけ「人間関係を固定化しない」ことに真面目に向き合うべきではないか?と感じています。

もっと柔軟にクラス替えする発想

完全に素人考えで話していきますが、ゼロベースで考えると、もっとクラスの入替が頻繁にあっても良いのでは?と感じます。

色々と保護者視点での話を聞いていると、本当は先生との相性が合わないのであればすぐに交代出来ればいいのにと感じました。一方で、マッチングにおける調整コストも大きいでしょうし、人間同士の話をですから、色々と感情的な弊害もあるでしょう。

だから、より頻度を上げてガラポンする案でもいいんじゃないかな?と。
かつてクラス替えは、2年おきのケースが多かったようですが、最近では1年おきのケースも増えてきているようですね。

もちろん、1人1人の子どもとゆっくり信頼関係を築いたり、友達との交友関係を深める時間、さらには年間行事や授業の進度の観点、事務的な負担など、色々考慮されて1年より短縮されることはなかなかないのだと思います。

ただ、クラスが一定期間固定的になってしまうことで人間関係の逃げ道がないように感じてしまうくらいであれば、実験的に半年に1回ガラポンするとかでもいいんじゃないかなーと思います。

合わない人とも上手くやることは必要か?

色々と気になったので、クラス替えに関して色々調べていると、やはり既に色々と議論があるようですね。

例えば以下のような記事。

ここで、「2年間クラスが一緒だからこそ生まれる絆」とか「合わない人とも上手くやっていく力が大事」という話があるのですが、私はちょっと違う考え方です。

もちろんこういう考え方もあっていいと思いますが、絆とかいう言葉、なんか胡散臭く感じてしまうんですよね。実際、小中高の時のクラスの友達と、大人になった今も「絆」があるかと言われるとそうではないし、個別に仲が良かった友人とは、別に「絆」とかではなく、お互いどこかで気にし合っている関係です。

それはクラスが1年か2年かというより、もはやよく一緒に遊んでたとか、何となく気が合ったとか、そんな感じです。

「合わない人と上手くやってく力」というのも、なんだかなぁと。合わない人とは、クラスが何年同じであっても合わないし、無理に合わせようとしても誰も幸せにならないのではないでしょうか。

むしろ、自分に合う環境を自分で選んでいくとか、自分とは違う考え方だけど、興味を持って飛び込める世界や、尊敬できる人との出会いをいかに学校外含めて求めていくかのほうが大事では?と感じます。

「合わない人とも上手くやっていく力」とのニュアンスの違い、伝わりますかね?「上手くやっていく力」というのが、あまりポジティブに聞こえないんです。

話をもとに戻すと、人間関係のミスマッチに対して、もちろん歩み寄りのコミュニケーションも大事だけど、合わないものは合わないとの割り切りの方がもっと大事。そこは「上手くやっていく」とかではなく、「合わない」という事実を認識して、それ以上深入りしない能力や仕組みのほうが必要なのかなと。

とにかく、何事も人間関係の選択肢は1つだと感じさせない設計が大事だし、合わないものを無理やり合わせる必要がないような、第三の選択肢を作ることのほうが大切では?と考えています。

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林 裕也@IT企業管理職 ×「グローバル・情報・探究」
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